膝に矢を受けてしまった冒険者はオブリビオンの夢をみるか

スカイリム生活

ツイッターなどで膝に矢を受けてしまってな・・・というフレーズを見たことがないだろうか。これはスカイリムのセリフが元ネタである。ちなみに、スカイリムとは空リムーブのことでもない。
『スカイリム』の名台詞(?)「膝に矢を受けてしまってな...」の誕生秘話 によると本来は衛兵にキャラクター性を持たせるためのセリフであったようだ。しかし、どの地方のどの衛兵も「膝に矢を受けてしまってな・・・」と語るので印象に残るのだろう。スカイリムの衛兵は膝に矢を受けないとなれないのかと。


スカイリムでは操作キャラを自分の好きなようにデザインできる。キャラはスカイリムで冒険する自分の分身だ。スカイリムは自由である。メインとなるストーリーはあるが、寄り道をしても良い。むしろ、自分で目的を見つけ世界を楽しむゲームである。自分で役割を演じるので、文字通りのロールプレイングゲームだ。

私自身もすっかりはまり、気がつけば200時間もスカイリムの中で生活していた。最近は膝に矢を受けてしまってご無沙汰ではあるが、魔術師として再スタートを始めている。スカイリムの恐ろしいところは止め時がないことだ。ダンジョンをクリアしたら、ダンジョンで手に入れたアイテムを売ったら、次のクエストのダンジョンを探したら・・・と、ついつい次も次もと新しいことをやりたくなってしまう。面白すぎて次のページをどんどんめくりたくなるような本をpage-turnerといいますが、スカイリムはまさにそんなゲーム。クエストが膨大で次から次へ発生するのもゲームから抜け出せなくなるのに拍車をかけている。

スカイリムの中でもう一つの生活を営んでいるのではないかと感じさせる点も抜け出せない理由だ。ゲーム内のNPC達が夜は寝て朝に起きたり、NPC同士が会話したり、関わり合ったりと、現実の世界では当たり前のことを当たり前に表現しているから、ゲーム内で生活しているように感じられる。丁寧に作ることでリアリティを生み出す。箱庭というには広すぎるオープンワールドがスカイリムの魅力だ。景色を見て歩くだけでも楽しいゲームはそうそう無いだろう。

スカイリムの操作キャラはどこまで自分なのか

スカイリムは、中で生活していると錯覚させるゲームであるが、分身たる操作キャラはどこまで自分なのだろう。この問いに関して、ゲーム脳ばとの第133回「スカイリムがやってくる」 において興味深い会話がなされていた。

要約すると、操作キャラを作った直後は自分の分身であるが、ゲームを進める内に実際にプレイしている自分Aとゲーム内に存在する自分Bへと分かれていくのだという。ゲームを始めたすぐは操作キャラの行動と選択が自身の気持ちと一致する。ある程度ゲームを進めると、俺はこっちの選択をするけど、操作キャラはもう一つの行動をするはずだから・・・と自分の気持ちとは違う選択をしてしまう。

私自身も似たような感覚であった。ゲームを進めるにつれ、自分自身とゲーム内のキャラクターに齟齬が生じ始めた。私は自分の分身を猫人間であるカジートにしMikeと名付けた。最初の頃はMikeは自分自身であったが、最後にはMikeという自分に似た何かになっていた。

その齟齬はなぜ生じるのか。Podcastでは二つの理由が挙げられていた。
一つは容姿が自分とは似ていないから。もう一つは、立場が違うから。

見た目とアイデンティティ

Podcastの配信者は、ゲームが進むに連れ操作キャラクターと自分が乖離する理由が、キャラ見た目にあると考えた。そこで、自分そっくりのキャラを作ってフォールアウト3を始めてみた。すると、自分そっくりなキャラが銃を撃つことに違和感を覚えたそうだ。ゲーム内の自分と姿形の似たキャラが気持ち悪くなり、キャラの見た目を変えてしまったという。

これは自分とそっくりのジェミノイドを作った大阪大学の教授である石黒宏を思い起こさせるエピソードだ。石黒氏の場合は、自分とそっくりのジェミノイドも自分自身であると感じているという。自己同一化と言えるだろう。ジェミノイドは本人の動きと連動させることができる。人間は道具を使う際に、道具も自分の体の一部と認識しているそうだ。石黒氏はジェミノイドと連動することで、ジェミノイドへアイデンティティが移ったと感じられたのかもしれない。

自分の見た目は思ったほどに知らない。鏡に映る自分の姿は本当の自分ではなく、左右反転した像である。録音した自分の声は普段聞いている自分の声とは違うし、録画した自分の動きは慣れないと見るに耐えない。ゲームにおける自己認識において、見た目はそこまで大きく寄与しない。行動の方がその寄与は大きい。フォールアウトなどの場合は、見た目はそっくりだがゲーム内での行動が自己と伴わない。そのため違和感を覚え乖離する。キネクトなどで、キャラと自分の動きが連動した方が、ゲームのキャラを自分の分身であると感じられるだろう。

立場とアイデンティティ

スカイリムの場合、ゲーム開始時は操作キャラを自分の分身であると感じているので、見た目は乖離の本質ではなさそうだ。
ゲームを進めるにつれ操作キャラとの乖離を感じるのは立場の違い、より正確にいえば立場が違ってくるからだ。

スカイリムの操作キャラは囚人であること以外は経歴が一切不明である。つまり、操作キャラのアイデンティティはまっさらな状態だ。操作キャラの見た目は自分の好みでデザインし、名前も付ける。見た目は違っても愛着が湧きやすい。
ゲーム開始時は囚人として手枷をはめられ自由がきかない。これは、プレイヤの操作がぎこちないのを緩和する狙いがあるのだろう。その後、手枷が取れ自分の思い通りに操作できるようになり、自分と操作キャラが一体になる。

ゲーム開始時は、操作キャラの経歴がなく、唯一のアイデンティティである見た目と名前は自分が決めたものだ。それ故に一体感は強い。
ゲームを進めていくと操作キャラは特別な存在であることが明らかになってくる。プレイによっては英雄にもなれるし、殺し屋のリーダーにもなれるのがスカイリムの魅力だ。つまり、操作キャラの経歴が構築されていく。その経歴は自分が選択し行動した結果だが積み重ねるのはゲーム内の操作キャラである。自分はただのゲームプレイヤだが、操作キャラは英雄である。皆の期待もある。立場上嫌とは言えない自分がいる。しかし、それは現実の自分の立場ではない。この立場の違いが、自分と操作キャラの乖離を生じさせるのだろう。
操作キャラを作った時点で、現実の自分Aゲーム内の自分Bに分かれるとは言い得て妙である。

この立場の違いがアイデンティティの違いにつながるのは、ハンドルネームで活動している人にはわかりやすいのではないか。ハンドルネームで活動する自分は、本名の自分とほぼ同じであるが微妙な違いがある。その違いは名前の違い、ネットとリアルの立場の違いによるものだ。
ハンドルネームでなくても、家庭、学校、職場でそれぞれ立場が違うだろう。同じ命題であっても、それぞれの立場で異なる選択をするだろう。家でのお父さんは、会社では課長で、学校ではお調子者と色々な立場がある。意識するしないにかかわらず、立場によってそれぞれの自己がある。
ゲーム内に作られた自己も立場が生じるにつれ新たな自己が作られる。ゲーム内のキャラに選択させた行動は本当に自分の意思によるものだろうか?もしかしたら、ゲーム内のキャラに選択させられたのではないか?
主客の転倒。これが、スカイリムから抜け出せない理由の一つなのかもしれない。

選択肢とアイデンティティ

ゲームを操作しているのか、ゲームに操作されているのか。そんな主客転倒を巧みに利用したのが臭作やメタルギアソリッド2である。

メタルギアソリッド2において主人公の雷電は任務を補佐してきた大佐がAIだったこと、任務は全てお膳立てされていたことを知る。無線連絡している恋人もAIなのか。自分の体験したとことは本当に体験したことなのかとアイデンティティが崩壊しそうな疑問が次々に湧く。
そして、雷電アイデンティティに対する疑問ははプレイヤにも跳ね返る。果たしてゲームをしているのは自分の意思なのか。知らぬ間にゲームにプレイさせられているのでは無いか。プレイヤにはそんな疑念が湧いてくる。雷電が操られたことに気がつくと同時に、これまで雷電やプレイヤを導いていた「AI大佐」が発狂し、メタな発言をするのもプレイヤを困惑させる演出だ。

臭作は自身がゲームキャラであることを自覚している。プレイヤは臭作を操作してゲームを進めるが、終盤になると臭作がプレイヤーに直接語りかけヒロインを陥れるような選択を強要する。プレイヤがゲームを進めるにはその選択を受け入れるしかない。プレイヤはゲームを進めない自由もある。つまり、ゲームを進めるということは臭作に強要されているとは言え自分の意思である。プレイヤは臭作と共犯関係にあると言えるだろう。

選択は我々がゲームに介入できる唯一の部分だ。それ故、選択肢はプレイヤの可能性である。選択の結果はプレイヤの意思を反映したものだ。選択肢を与えることは、プレイヤをゲームの中に引き込み、操作キャラとの一体感を高める。それは、ドラクエ1における竜王の誘惑であり、ドラクエ5における結婚である。
ドラクエ5の結婚はビアンカにしたか、フローラにしたかで話題が盛り上がる。結婚はプレイヤの意思ではない。それにもかかわらず、プレイヤは自分の意思で結婚したと感じる。不自由な選択肢ではあるが、プレイヤが自ら選択したことがプレイヤの意思となるからだろう。

一般的にゲームクリアが近づくつれプレイヤと操作キャラの一体感は徐々に乖離し、クリア後には完全に分かれてしまう。ドラクエ1では、EDでこれまで全く話すことのなかった勇者が自らの意思を語り出す。勇者自らプレイヤから操作されない道を歩み出す。
ゲーム構造としてプレイヤと操作キャラを切り離しているのが、夢をみる島である。夢をみる島において真相を知るとクリアしたくなくなるプレイヤは多いのでは無いか。ゲームをクリアしたい気持ちが勝るためクリアする。EDはプレイヤの意思の結果だ。もちろん、クリアしないのも一つの選択だ。

ゲームにおける選択がプレイヤをゲームに引き込むトリックであり、選択させないことがゲームから引き離すカラクリだ。だからこそ、多くのゲームのEDはかつての操作キャラを見るだけで操作できないのだろう。彼らはプレイヤとは別の道を歩みだしているのだから。

スカイリムにおける乖離

スカイリムには多くの選択がある。する自由。しない自由。キャラデザも選択の一つだ。ストーリーを進めずにキノコばかり採取しても良いし、盗賊稼業に身をやつしても良い。主要人物を殺し、イベントを進めなくする自由もある。それぞれの選択の結果はプレイヤの意思によるものだ。
スカイリムにおける多くの選択とその結果がプレイヤと操作キャラの一体感を強める。しかし、ゲーム内で徐々に操作キャラ固有の人間関係や立場が構築されていく。操作キャラはプレイヤの分身であるが、自分とは違う者となる。ゲーム開始時にパラレルワールドのようにプレイヤと操作キャラに道が分かれ、その差がしだいに大きくなっていく。これがスカイリムにおけるプレイヤと操作キャラの乖離だ。
スカイリムは乖離の進行が遅いゲームだ。だから長い間つづけてしまう。モンハンなども解離性を小さくとどめている。今後は、プレイヤと操作キャラの乖離させず、長く続けさせるゲームが増えていくのかなと予感させる。