ロードサイドのおもちゃ屋さん「おもちゃのハローマック」について語られた記事がプレジデントに掲載されていた。
お城をイメージさせる独特の外観は、姿を消しても尚にぎやかだったころが思い起こされる。ハローマックを手掛けていた靴の量販店である「チヨダ」は なつかしのハローマックの店舗 | キャンペーン情報 | 店舗のキャンペーン情報 | 靴とシューズの専門店 株式会社チヨダ にて、かつてハローマックだった店舗をまとめている。ハローマックと同じく射抜き前の店舗が偲ばれる代表格は「アルペン」であろうか。
ハローマックと並ぶロードサイドのおもちゃ屋として「おもちゃのBANBAN」があった。私は近所に BANBAN があったので、そちらの方が馴染みが深い。はじめてストリートファイター2の筐体を見たのは近所の BANBAN であった。その後、当然のように SNK の筐体も置かれ、KOF や侍スピリッツなどをプレイするきっかけになった。
さて、この二つのおもちゃ屋さんであるハローマックと BANBAN はロードサイド店舗であること以外にも共通点が多い。ともに、1980年代中頃から全国展開され始め、1990年代後半のトイザらスや大型ショッピングモールの台頭により、その姿を消消していった。また、ハローマックはチヨダ、おもちゃのBANBANは「靴のマルトミ」と、どちらも靴屋が異業種へと参入した点まで共通している。
チヨダも靴のマルトミも、1970年代後半から郊外店舗、いわゆるロードサイド店舗を展開することで業績を伸ばし、そのノウハウを活かしておもちゃ屋を展開することとなった。ショッピングモールの台頭により、ロードサイド店舗の業績が低下。その結果、靴のマルトミは倒産してしまったが、チヨダは生き残った。BANBAN のお世話になった自分としては、靴のマルトミが倒産してしまった理由が気になったので調べてみた。
深堀していくと意外な事実にたどり着いたのが面白かった。
都心部から郊外へ
チヨダは、1970年に大阪、1973年に九州へと進出し、徐々に全国へと展開していく。順調に拡大を続け、1974年には100店舗を達成した。
靴のマルトミは名古屋の地下街や商店街を中心に展開し、1975年に100店舗を達成。しかし、1970年代後半になると、ニュータウンの台頭などにより人口が都市部から郊外へ流出し、都市部での売り上げが低迷した。靴のマルトミは郊外に商機を見出し、都心部の店の多くを閉店し、ロードサイド店を新たに展開していった。
チヨダも靴のマルトミからやや遅れて1977年から都心部からロードサイドへと転換していく。
ちなみに、1979年にチヨダは「東京靴流通センダー」、靴のマルトミは岐阜に「靴流通センター」と互いによく似た名前の量販店をオープンしている。その後、靴のマルトミは地名を冠した「◯◯靴流通センダー」を展開していく。
個人的な推測だが、靴のマルトミの社長である富永光行がチヨダをライバル視しているような気がする。
1970年代は、ファミリーレストランやホームセンターなど、駐車場を備えたロードサイド店舗が台頭してきた時期である。「青山商事」が郊外型店舗である「洋服の青山」の1号店を開いたのも1974年である。
これらの店舗は、1973年に制定され、1974年に施行された「大規模小売店舗法 - Wikipedia(大店法)」による規制を逃れるため、 500 m2 に満たない店舗面積で出店する例が多かった。この「大店法」は、後に靴のマルトミが倒産に追い込まれた一因でもある。
ちなみに、プレジデントの記事でも言及されているが「ロードサイド店舗 」は、チヨダの社長であった舟橋政男とされている。
おもちゃ屋への進出と「トイザらス」の登場
1985年、ロードサイド店舗で拡大したチヨダと靴のマルトミは、異業種であるおもちゃ屋業界へと参入する。最盛期には、チヨダの「おもちゃのハローマック」が500店舗、靴のマルトミの「おもちゃのBANBAN」が300店舗弱ほどが展開されていた。
ハローマックをオープンした1985年にチヨダは500店舗を達成し、その勢いは止まることなく1989年には1000店舗に到達している。
一方の、靴のマルトミは1986年には国内シェア No. 1 を達成し、1989年には900店舗ほど運営していた。
1980年代に拡大を続けた両店であったが、1990年代に入ると風向きが変わってくる。「トイザらス」の日本進出である。
トイザらスの出店により、1992年1月に大店法が大幅に緩和された。規制の対象となる第一種大規模小売店の店舗面積が 1,500 m2 から 3,000 m2 へと拡大され、また各種手続きなども簡略化された。その結果、1990年代中ごろから各地に大規模ショッピングモールが増え始める。
ちなみに、大規模小売店舗法(大店法)は、アメリカ政府から非関税障壁として批判され、WTO の協定違反の疑いがあることから2000年6月に廃止され、大規模小売店舗立地法(大店立地法)が新たに施行された。これにより、大型ショッピングモールの進出がより一層活性化されていった。
トイザらスによって、日本の玩具小売りは大きな打撃を受ける。その影響はハローマックやおもちゃのBANBANにも当然及んだ。
また、トイザらスに関連する大店法の規制緩和に影響は、本業である靴の小売りにも影響を与えた。
ショッピングモールの台頭により、ロードサイド店舗の人気に陰りが出始めた。消費者の行動が、車でロードサイド店舗を巡るのではなく、ショッピングモールですべてをまかなうように変化していったのだ。
結果として、ロードサイド店舗で拡大したチヨダと靴のマルトミは、売り上げを大きく下げることとなる。
チヨダは、ロードサイド店舗を減少させつつ、ショッピングモールにも進出。インターネット通販を手掛けた。ハローマックは2000年以降は順次撤退することに。2結果的に、全店閉鎖が完了したのは8年越しの2008年であった。
チヨダは、生き残ることができたが靴のマルトミは2000年に倒産してしまう。チヨダと靴のマルトミの違いはなんだったのか。
諸刃の剣のオーナーシステム
靴のマルトミが倒産に至った要因は、1980年代半ばの成長の仕方にある。
ロードサイド店舗で事業を拡大し1986年に業界シェア No.1 となった靴のマルトミであったが、1987年には売上の伸びが鈍化してしまった。
靴のマルトミの歴史|The社史 にもあるように、チヨダと靴のマルトミがそれぞれ1000店舗と700店舗近くを営業しており靴の量販店の商圏は、ほぼ飽和状態にあったと思われる。
1店舗当たりの収益を上げるため靴のマルトミは直営店を独立採算の販売委託店へと切り替える「オーナーシステム」を1987年に導入する。店舗や内装に靴の調達は会社が取り仕切りが、店舗の運営はオーナーに任せるという、フランチャイズとはやや少し異なるスタイルだ。
雇われ店長を独立した経営者へと変える作戦は功を奏し、狙い通りに一店舗当たりの売上が増加し、利益も大幅に増えた。その勢いで靴のマルトミは1990年には名古屋証券取引所第2部への株式上場を果たした。
1989年には約900店舗の内の500店舗がオーナーシステムで運営されていた。おもちゃの BANBAN もオーナーシステムで運営された店舗があった。靴のマルトミの倒産後も存続したおもちゃのBANBANはオーナーシステムで運営されていた店舗と思われる。
オーナーシステムにより売り上げを伸ばし、さらに店舗数を増やし続けた靴のマルトミであったが、1990年代に入ると状況が一転する。
バブル崩壊による消費の低迷、トイザらスの参入による玩具業界の再編と、同時に発生した大店法の規制緩和によるショッピングモールの増加。
消費者行動の変化により、ロードサイド店舗を手掛けていた靴のマルトミの営業利益は大きく落ち込んだ。
1994年に靴のマルトミは、BANBAN などを含めて1800店を営業していたが、不採算店である180店舗の閉鎖を決めた。
しかし、利益は落ち続け1998年には赤字へと転落。1999年にさらなる店舗閉鎖に乗り出すも、損失拡大を止めることができず2000年に民事再生法の適用を申請することとなった。
倒産の要因は「オーナーシステム」であろう。
オーナーシステムは、店舗当たりの売り上げを上昇させた。その勢いを利用し、靴のマルトミは新規出店により業績をどんどん拡大させていった。1991年から1994年の3年でなんど900店舗弱もの店舗をオープンしている。靴のマルトミは、オーナーシステムというバフにより新規出店することで営業利益を増大させていった。裏を返せば、新規出店できなければ利益が出せない構造になっていた。
靴のマルトミは、不採算店の閉鎖を決めたが、そこでもオーナーシステムが立ちはだかる。全店舗の10%にあたる180店は確かに多いが、生き残るためにはより多くの店舗を閉鎖する必要があったはずだ。。
しかし、それもオーナーシステムのため捗らなかっただろう。対するチヨダが9割を直営店として営業していたのと大きく異なっている。
そもそも、店舗数が多すぎる。店舗側が多ければ多いほど固定費が重くのしかかる。現在の大手であるABCマートの店舗数が1,100程である。靴のマルトミが営業していた1,800店のすべてが靴の小売りではないにしても、ロードサイド店だけで1,000店以上は明らかに多すぎる。そもそも、ロードサイド店舗の商圏が飽和した状態でオーナーシステムにより無理や利益を上げたのが間違いであった。
増大し続けることで利益を上げてきた靴のマルトミは、それができなくなったために倒産するより道はなかったのだろう。
靴のマルトミのその後
民事再生法を申請した靴のマルトミは、その後に「ワンゾーン」として再建された。全国に330店舗ほどを展開していた。
ショッピングモールなどにも出店していたようだが、財政状況は芳しくなかったようだ。
2005年に、ユニクロを運営するファーストリテイリングが靴の小売りに進出する足掛かりとするためにワンゾーンを買収する。
しかしながら、ユニクロの初めての靴事業はうまくいかなかった。紆余曲折を経て11年越しの2015年に二度目の参入を果たし、現在も継続して靴を販売している。
さて、ファーストリテイリングに買収されたワンゾーンは色々あって GU となっている。
GU は、もともとファーストリテイリングとダイエーとの業務提携により生まれた g. u. というブランドであった。
ユニクロよりも低価格でカジュアルという路線は現在と変わらないが、当初はうまくいかなかったようだ。
ファーストリテイリングは、靴の小売りに進出する際に、愛知のワンゾーンと大阪の「ビューカンパニー」を買収し、そこに g. u. を加えて「GOVリテイリング」を設立する。その際に、ワンゾーンが存続会社とされた。
靴事業に失敗しつつ、ユニクロよりも低価格路線の g. u. が軌道に乗り始め2011年にGOVリテイリングが「ジーユー」へと社号を変更し、現在の GU となった。
というわけで、靴のマルトミ → ワンゾーン(再建) → GOVリテイリング(3社合併・ワンゾーン存続) → ジーユー(社号変更)と、社号の流れを追うと「靴のマルトミ」が「GU」になったというわけ。
靴のマルトミから GU へ
おもちゃのハローマックを運営したチヨダと、おもちゃの BANBAN を運営した靴のマルトミの違いは「オーナーシステム」であろう。
靴のマルトミは、店長を独立経営者とすることで店舗当たりの売り上げを増やし、その利益を元手に新規出店を繰り返し利益を拡大するという路線をとった。
結果的に、ロードサイド店舗からショッピングモールへの転換期にチヨダは持ちこたえることができ、靴のマルトミは耐えられず倒産することとなってしまった。
靴のマルトミのその後を追いかけたら、なぜか GU へとつながっていたという奇妙な知見を得られたのが今回の収穫。