萌えという感情にエロは含まれるのか? に触発されたエントリ。
「萌え」に「エロ」が含まれるのか否かを考えると、以下の二つの可能性が挙げられる。
- 「萌え」の中に「エロ」が内包されている
- 「萌え」を因数分解すると「エロ」という要素がでてくるのか
- 「萌え」に「エロ」が付随している
- それぞれ違う要素である
「萌え」の成立とその意味
「萌え」がなかった頃から「萌え」という感情はあった。しかし、それに対する言葉がなかったので上手く表現することができなかった。そのような欲求により生まれたのが「萌え」という言葉なのだろう。
"萌え"とは対象への到達不可能性による絶望が予め自らの内に含まれた渇望である。
二次元に「かわいい」と言っても自分には何も返ってこない。「萌え」とは自分がその対象を「かわいいと思っている」とその対象ではなく、第三者に伝えるための言葉で、「自分はそのキャラクター(あるいは眼鏡などのアイテムも可)をかわいいと感じる」と同じオタクに伝えるための言葉。要するに「萌え」とは「自分が"萌え"の状態にある」と自分の感情を一方的に宣言すること。だから、本来三次元に使うのはおかしいのだけど。
ここでは「萌え」は「対象あるいは、現象、または記号化されたそれらに対して”魅力を感じたこと”を誰かに宣言する言葉」としておこう。転じて「記号化された現象・対象に魅力を感じた状態」とでも言えば良いのか。
「萌え」の成立は定かではないが、成立した当初は「萌え≠エロ」が叫ばれていたように感じる。つまり、歴史的に考えると「萌え」は「エロ」を含まず、それぞれ別物で「萌え」に「エロ」が付随しているわけだ。
しかし、言葉は変化するものなので「萌え」にエロを含んで感じる人もいるだろうし、さらに言えば拡散しオタク以外に広まった「萌え」はほとんど「エロ」とイコールであると認識されているようだ。個人的に、オタク外の一般に拡散した「萌え」は「フェチ」と混同されていると感じる。これを念頭に置くと、「萌え」と「エロ」を考える際に、「萌え」と「エロ」を比べるのではなく、「エロ」に内包される「フェチ」と比べたた方がすっきりするのではないか。「萌え」も「フェチ」も重なる部分が非常に多い。例えば、「メガネ萌え」もいれば、「メガネフェチ」もいる。
「フェチ」という俗語
フェチとは、フェティシズムの略称である。ただし、略され俗語となった際に本来の意味とは異なる言葉に変化している。
フェティシズム - Wikipedia によると、フェティシズムは、人類学・宗教学では呪物崇拝、経済学では物神崇拝、心理学では性的倒錯の一つのあり方である。「フェチ」に近いのは、心理学におけるフェティズムで、一般には「性的フェティズム」と認知されている。心理学における「性的フェティズム」は、変態性欲、性的倒錯とされ、非常に歪んだ性的嗜好で通常の生活が営めないなどのある種の障害である。一方「フェチ」は、記号化された現象・対象に性的興奮を示す傾向(フェチ - Wikipedia) であり、性的嗜好の一つに過ぎない。
ここでは、「フェチ」を「記号化された現象・対象に性的興奮を示す傾向」を示す俗語として用いる。胸の大きな女性としか性行為がままならいほど歪めば「フェティズム」であろうが、好む傾向にあるレベルでは「フェチ」でしかない。
ちなみに、状態に執着する場合は「パラフィリア」というらしい。
- 「ところで、SLN:blog*: フェチ化する世界 を見てくれ。こいつをどう思う?」
- 「すごく・・・深いです・・・」
設定や背景に「萌え」を感じる
例えば先に挙げた「メガネ」を考えてみる。「メガネ萌え」と「メガネフェチ」ともに、「メガネ」そのものが好きな人を指す場合もあるが、今回は「メガネ」をつけた人が好きな場合を考える。
「メガネフェチ」はメガネをかけた人に性的興奮を覚えるタイプである。見るだけで十分な人もいれば、実際にメガネをかけたまま性交渉したい人もいるだろう。性的興奮なので、主に目からの情報、つまりメガネをかけている事が重要である。
一方「メガネ萌え」の場合、メガネをかけた人の何に萌えるのか。それは「メガネ」をかけていることに対するコンプレックスであったり、真面目ないいんちょであったり、図書委員であったり、おとなしいなどの「要素」あるいは「属性」に萌えるわけだ。萌える場合は、メガネをかけたその人の外見もさることながら、メガネをかけるのに至った経緯や背景なども重要である。
まぁ、「メガネフェチ」の場合は女性教師とかいんちょなどの背景がつき物ですが。というわけで、シチュエーションの影響が少ないより本能に訴える身体的特徴を例にして見る。例えば「貧乳」。
「貧乳フェチ」は「貧乳」そのものが好きなタイプだ。言うならば「貧乳」の外見、造詣等が大事でそれに性的興奮を覚える。一方「貧乳萌え」の場合、「貧乳」であることも重要であるが、貧乳であることに対するコンプレックス、例えば日々胸を大きくしようと努力していたりなどが大事でそこに萌えるのだ。僕個人としては、らきすたにおけるこなた自身が貧乳にであることにあまりコンプレックスを抱いていないので「貧乳萌え」を感じないが、みなみの場合は大層なコンプレックスを抱いているので「貧乳萌え」を感じる。
同様なことは「巨乳」にも言える。「巨乳フェチ」はおっぱい星人である。「巨乳萌え」は巨乳にまつわるエトセトラな話題に萌えるのだ。ただ、「巨乳」に関するエトセトラはあまり聞かないので果たして、本来的に「巨乳萌え」が存在するのか疑問だが。皆が「巨乳萌え!」と言ってるのは実は「巨乳フェチ」じゃないのか?
すると「ニーソ萌え」が分からない。というか「ニーソ萌え」及び「絶対領域萌え」など存在するのだろうか?「ニーソ」を履くことにより獲得しうる背景が僕には全く思いつかない。「ニーソ萌え」など存在せずに、実は全部「ニーソフェチ」なんじゃなかろうか?
「萌え」と「フェチ」の違いを考えると、僕は「チャイナ服」に関しては「フェチ」だが「萌え」ではないようだ。別に中華娘が好きという訳でもなく、単純にスリットから見える足が好きなのだから完全に「フェチ」だろう。
皆さんも一旦「萌え」なのか「フェチ」なのか、その状況に至る背景に興奮しているのか、その状況そのものに興奮しているのか考えてみては?
ところで、「メガネ」そのものが好きな「メガネ萌え」と「メガネフェチ」の場合もやはり「メガネ」に感じる感情は全く違う。「メガネフェチ」ならば、「メガネ」の造詣等にエロティズムを感じる人である。「メガネ萌え」は「フェチ」のように性的興奮は覚えずメガネに詳しいとか、造詣にしても機能美に至った過程とかを語るんじゃないか?
概念に「萌え」、肉に「フェチ」を感じる
「萌え」は到達不可能性から生じた言葉だ。一方「フェチ」は到達可能だ。この違いは、「萌え」がより抽象的な概念に対する感情であるのに対し、「フェチ」はより具体的な物に対する感情によるものだからではなかろうか。つまり、理性の「萌え」と本能の「フェチ」。まぁ、「萌え」た状態は理性的とはいえませんが、少なくとも理性がなくなって本能のみの状態では「萌え」は感じられないでしょう。
これを端的に表したのが、萌えという感情にエロは含まれるのか? の はてなブックマーク にある、
エロ目的に使おうとするときに萌は消えるんじゃね?たとえばかわいいなあって思ったもので、これでヌこうって思って理性がシュルシュル〜ってぬけていくときに萌っていう概念もシュルシュル〜って無くなってく感じ
なるコメントではなかろうか。
擬人化萌えはできても、擬人化フェチはできない
「フェチ」は性的欲求であるから、実体あるいは実体験によりその欲求を満たすことができる。一方「萌え」は実体が無くても良い。より概念的なものに対しても「萌え」ることが可能。それが所謂「萌え記号」や「萌え属性」なのだろう。これは、「フェチ」で言葉遊びはできないが「萌え」なら可能ということ。
その極端な例が擬人化萌え。擬人化萌えで有名な例はOSたんであろうか。
OSたん一号は「Meたん」のはずだ。MeはダメOSの烙印を押されていたが、メイド風に擬人化されることで、ドジッ娘属性を獲得する。以後w2kやXPなどが擬人化されていくが、OSそのもの性質を「萌え属性」に本来的に変換できたのはMeだけだろう。
擬人化は絵に起こさなくても萌えることが可能だ。絵は「萌え」を加速させるツールではあるが、必ずしも必要な因子ではない。つまり、絵の無い概念であっても萌えることが可能。一方で擬人化した対象に性的興奮=「フェチ」を感じるには「絵」が必要。絵に起こされたXPたんに性的興奮を覚えることはできても、XPたんの設定に性的興奮を覚えるのは難しい。
「フェチ」には肉が必要。つまり、擬人化絵とは受肉である。絵に起こすことで肉がつき初めて「フェチ」を感じ「エロ」に至る。
「萌えに性的要素は含まれない。萌えというのは、もっと高次元の感情なのだ」という言葉の裏には、性的要素には受肉必要だが、「萌え」は概念だけでも十分で、それ故に高次な感情であるというような意味が隠されているのだろう。
概念で実体のない神、あるいは天使は受肉しないと現世に姿を現すことができない。
感じることに意義のある「萌え」と満たされることで処理される「フェチ」
「萌え」は到達不可能であるから、本来的に満たされることはない。渇望である。じゃあ「萌え」を感じている人間が「渇望」しているかというと、そうでもない。むしろ「萌え」は感じることに意味がある。「萌え」は感じた時点で本来の意義を全うしているといえる。何故なら、「萌え」とは「自分が"萌え"の状態にある」と自分の感情を一方的に宣言することだから。
一方、「フェチ」は実体あるいは実体験により満たされる。ただし、逆に言えば実体ないし実体験がないと決して満たされることがない。何故なら「エロ」という本能的な欲求だから。「フェチ」は到達可能であるが故に感じるだけでは満足できず、そこには必ず処理が必要となる。
これが「萌え」と「フェチ」の違い。そして、「萌え」に「エロ」が含まれない理由でもある。
先にも述べたように、言葉は拡散し、変化するものだ。広がるにつれ、その意味は各人の中で広がっていく。そうすることで、様々な意味が付加されていく。本来的に「萌え」には「エロ」は内包されていなかったが、拡散するにつれ「エロ」が内包され、ついには「萌え≒エロ」的な認識となっている。これは「萌え」という言葉が概念的で、良く分からない言葉であるが故に、言葉が拡散する際により具体的な属性や要素とともに広まったから。それは、具現化されたものの方がインパクトがあり、より本能的で理解しやすいためである。「萌え」が一般に広まる際には「メイド」が付随していた。「メイド」は「萌え要素」の他に「フェチ要素」も含む。特に、実体化した、さらには三次元によって装われた「メイド」は性的興奮を感じ取り易い。だから「萌え≒エロ」と認識されるに至ったのではないか。
だから、僕の定義など個人の私見でしかない。しかし、ある「萌える」対象を因数分解していったときに、対象Aは「萌え」と「エロ」を感じるのに、対象Bは「萌え」だけしか感じないことが間々ある。場合によっては「萌え」だけしか感じない対象Bの「エロ」に嫌悪を示す場合もある。これは、やはり感覚的に「萌え」と「エロ」が別ものだからではないだろうか?