ゲームのプレイヤは導くものである

ゲームにおける操作キャラとプレイヤの関係とはどのようなものであろうか。またゲーム内の操作キャラをどこまで自分と感じられるだろうか。これはゲームのジャンルやスタイルによって感じ方が異なるだろうし、人それぞれの感覚でもある。先ずは種々のゲームにおけるプレイヤの立場を考えてみよう。
例えばスポーツゲームスポーツゲームにおいて、プレイヤは選手だろうか。テニスゲームなどは一人の選手を操作するが、野球ゲームやサッカーゲームでは一人で複数人の選手を操作できる。全体を俯瞰し指示を出す立場は監督に近いけれども、監督ではない。個別の選手かといわれればそうでもない。プレイヤは選手を操作する立場にはあるけれども、選手そのものではないだろう。ただし、実況パワフルプロ野球サクセスモードなどの選手を育てるゲームの場合、その操作キャラは限りなく自分に近い存在だ。サクセスモードでは通常の野球ゲームとは異なり、試合中は自身の打順でしか操作できない*1。そのため、自分がどんなにがんばっても勝てないこともあるし、その逆だってある。むしろ、サクセスモードの試合中に自分のキャラしか操作できない点が、操作キャラ=プレイヤと感じさせる効果になってる。
あるいは戦略シミュレーション。戦略シミュレーションにおけるプレイヤは作戦を統括する立場にいる。それではプレイヤは総司令官の位置にいるかといえば限りなく近いがそうではないだろう。総司令官という立場では、前線の状況まで手に取るように分かるわけがない。シミュレーションだからと言ってしまえばそれまでだが、厳密に考えた場合、プレイヤは何者だろうか。信長の野望三国志などは、歴史のもしかしたらを体験できるシミュレーションゲームである。プレイヤは各大名や武将を選択し、天下統一を目指す。三国志において劉備を選択したとしよう。この時プレイヤは劉備だろうか。劉備になりきってプレイすることは可能だが、プレイヤは劉備の知りえない情報や歴史的事実を知っているし、さまざまなパラメータを一度に俯瞰することも可能だ。プレイヤは劉備そのものというよりも劉備を天下統一に導く存在に近いはずだ。それは、具体的なアドバイザー、つまり軍師たる孔明ではなく、しばし英雄譚に登場する英雄を勝利に導いた存在である。つまり、プレイヤは劉備を勝利に導く神的な存在なのではないか。
アクションゲームはどうだろうか。アクションゲームでは視点が重要なファクタになっている。操作キャラの見えないFPSならば、操作キャラ=プレイヤだと感じやすい。カメラが後方下がって、操作キャラが見えるTPSになると操作キャラ=プレイヤだと感じる度合いはFPSに比べれば減るだろう。サイドビューならばなおさらだ。これはレースゲームも同じで、コックピット視点ならば自分が車に乗って運転しているように感じるが、車体が見える俯瞰視点になるとリモートコントロールしているように感じる。ただし、どちらの視点が優れているか決めるのは難しく、コックピット視点だと折角カスタマイズした車体が見えず操作もやや難しい。かと言って、俯瞰にすると車体は良く見えるし操作もし易いが自分が乗っているようには感じない。TPSであっても、操作キャラのキャラクター性を押し出すか否かでも操作キャラ=プレイヤと感じる度合いは異なってくる。ストリートファイター2でリュウ=自分自身だと感じるのは中々に難しい。また、現在マリオを自分自身と感じることが難しいのもマリオのキャラクター性が際立っているからだろう。スーパーマリオブラザーズ発売当時と、現在のマリオを比べたならば昔のマリオの方が自分自身に近かっただろう。キャラクター性はグラフィックの進化にも依存する要素である。サイドビュー形式のアクションゲームの場合、グラフィックがリアルでないほど操作キャラ=プレイヤと感じやすく、逆にFPS形式ならばグラフィックがしょぼいと操作キャラは自分自身から逸脱していく。サイドビュー形式の場合、操作キャラが見えるため操作キャラのグラフィックが単純化されるほど自分自身だと脳内保管しやすくなる。操作キャラがリアルになるほどキャラクター性が際立つので、プレイヤからは乖離する。一方FPSの場合は操作キャラは見えず、敵やオブジェクト、背景が見えるだけだ。まさに自分が見た視点であるからこそ、リアルでなければゲーム内に入り込むことが難しい。ただし、不気味の谷ではないけれど、中途半端にリアルならば単純化した方がプレイヤはリアリティを感じるだろう。しばし、ゲーマー間においてゲームにおいてグラフィックの向上はゲーム性につながる、つながらないという平行議論が見られるが、これはそれぞれが好むゲームが異なるから交わることがないのだろう。日本の場合、どちらかというとFPSをプレイしないゲーマーが多いためグラフィックの向上が直接ゲームの面白さにつながると思わないのではないだろうか。
視点とキャラクター性が操作キャラとプレイヤの関係を決める要素になるにはRPGも同じだ。ウィザードリィのような3Dダンジョンの方が、操作キャラの見えるマップ形式よりも自分自身が冒険していると感じる度合いが大きいだろう。操作キャラのキャラクター性については、和製RPGの二大巨頭であるドラクエとFFが対となる。もちろん、戦闘画面の違いもあるが操作キャラのキャラクター性の方が大きな要因である。ドラクエの主人公はFFの主人公たちに比べキャラが薄い。また、FFではキャラクターたちが勝手にストーリーを進めるが、ドラクエの主人公はしゃべらない。ドラクエFPS的に主人公たちの姿は見えないが、FFはサイトビューなため常に主人公たちを見ることとなる。FFはキャラクターを意識せざる得ない。この違いにより、ドラクエを好んでプレイする人は操作キャラ=プレイヤと感じ易く、そのように感じられないFFを好まない傾向がある。それでは、ドラクエにおいてどこまでが操作キャラ=プレイヤなのであろうか。

ドラクエ 同一化からの解放

ドラクエは自身の名前を入力した後に冒険が始まる。主人公は「はい、いいえ」以外しゃべらず、その過去についてもはっきりとしていない。ただし、ドラクエもシリーズを重ねるにつれ主人公の細部の設定が詳しくなるが。それでもFFに比べるとキャラは薄い。キャラクター性が薄く、主人公がしゃべれないからこそ、主人公=プレイヤと感じるのだろう。戦闘における視点も主人公プレイヤと感じさせる。それに加えストーリーの語り方によっても、主人公=プレイヤと感じさせる作りとなっている。たとえば、ドラクエ1のラスボスである竜王の勇者を惑わす「世界の 半分をおまえ*2 に やろう」→「はい、いいえ」という選択肢。勇者に対する誘惑だが、それは同時にプレイヤへの誘惑であり、プレイヤは主人公同様に思い悩むことになる。
ドラクエでもう一つ有名な選択肢といえば、5における結婚であろうか。結婚はプレイヤの意志ではない。ストーリー上でもアイテムを手に入れるためには結婚しなければならないという状況であり、主人公が望んだ結婚ではないからプレイヤの気持ちと呼応している。また結婚相手も幼馴染とお嬢様の二人が用意されている*3。お嬢様を選ばなければアイテムは手に入らない状況だが、天涯孤独の幼馴染を見捨てるわけにはいけないという不自由な二者択一。究極の選択ながら、プレイヤに選択を迫り、プレイヤ自身に選択させることで、プレイヤは自らの意思で結婚したと感じられる。そして、その究極の選択は主人公も同じ状況である。ドラクエ1における「世界の半分」もこの究極の選択である。究極の選択による迷いと選んだ結果がプレイヤと主人公をシンクロさせる仕掛けとなっている。
ドラクエ1では「世界の半分」という誘惑を退けた後に竜王と戦うこととなる。竜王に勝利した後に、姫のいる城に戻るとエンディングとなるが、そのとき初めて勇者は自らの意思で自らの思いを語りだす。エンディングにおける該当部のテキストは以下のとおり。

「おお! 勇者*4! 全ては 古い 言い伝えの ままで あった!
「すなわち そなたこそは 勇者ロトの 血を引く者!
「そなたこそ この世界を 治めるに ふさわしい お方 なのじゃ!
「わしに 代わって この国を 治めてくれるな?
しかし 勇者*5 は 言いました。
「いいえ。私の 治める 国が あるなら それは 私自身で 探したいのです

さて、この勇者の意思はプレイヤの意思だろうか。この意思にシンクロするプレイヤもいるだろうが、いないプレイヤもいるだろう。少なくとも、この勇者の行動とセリフ回しにはプレイヤと勇者の意思をシンクロさせようという仕掛けはないように思える。むしろ、「しかし 勇者*6 は 言いました。」というナレーションにより勇者とプレイヤを乖離させようとしているのではないか。エンディングで主人公とプレイやを乖離させる仕組みはドラクエ3でも見られる。

ドラクエ3も導入部では主人公とプレイヤをシンクロさせる仕掛けが多い。主人公は16歳になって初めて自分が勇者として旅たたなければならないことを知る。これはプレイヤが勇者としてゲームを始めたこととリンクする。さらに、リメイク版にいたっては夢の中の心理テストによる性格付けにより主人公=プレイヤを強烈に印象付けている。主人公のキャラが希薄であることや、比較的自由なシナリオもプレイヤのシンクロ率を高める要因となっている。しかし、ドラクエ3は勇者ロトの物語である。その事実はエンディングで語られるのだが、エンディング後の物語はプレイヤはタッチできない。その後、ロトがどのように子をなしたのかは謎のままである。物語冒頭では徹底的に主人公=プレイヤを意識させるが、エンディングでは主人公とプレイヤを決別させる。エンディングでプレイヤは主人公から乖離させられるが、不思議と違和感を感じない。その理由は、エンディングが始まってしまうと主人公を操作できなくなるからだろう。操作できないキャラクターは自分ではない。操作できなくなった時点で、ゲーム内のキャラクターはプレイヤから解放されゲーム内で時を過ごし始める。プレイヤは操作キャラから乖離することで、一つの物語を終えた感慨にふける。ドラクエは冒頭で主人公=プレイヤと認識させシンクロ率を高めながら、エンディングでそれぞれが解放される構造となっている。しばしゲームを終わらせたくないからエンディング前でやめてしまう人がいる。これはゲームを終わらせることで操作キャラが自身と乖離する際の喪失感が嫌だからなのかもしれない。

FF8 操作の入れ子構造

プレイヤ=主人公と意識させ、自分自身が冒険しているように感じさせるが、エンディングでは主人公はプレイヤから解放される。プレイヤも現実へと帰っていく。これはドラクエに限らず殆どのゲームの構造でもある。ゲームの操作キャラはゲームが始まる前も終わった後もゲーム内の物語で生きるはずである。プレイヤはゲーム中の時間軸内だけで操作キャラの物語を共有することとなる。この共有、つまりシンクロ具合がゲームによって異なってくる。例えば、ウルトラマンとハヤタの関係のように、プレイヤがゲームをプレイしている最中は操作キャラに全く記憶がの残らない場合もあるだろう。しかし、これはゲーム終了後の操作キャラの生活が心配である。プレイヤが操作しているけども、あたかも操作キャラの自由意志であるかのようにキャラが動くというのが一般的に解釈ではなかろうか。
主人公=プレイヤと意識させるドラクエに対して、FFはそうではない。FFは主人公たちを操作できるが、主人公=プレイヤとは感じない。なぜなら主人公たちのキャラが濃すぎるからだ。ただし、FF1に限ってはそうではないが。FF1は構造上、主人公とプレイヤは一心同体である。時間がループ状に閉じたFF1の世界を開放するには、外界から異物を混入しなければならない。それがFF1の主人公たちであり、それはまさにプレイヤそのものである。ただしエンディングにおいて世界は解放されたが、我々プレイヤは解放されたのかは分からないのだが。
FFはドラクエとは異なり、主人公たちの物語を見るゲームである。ただ見るのではなく、垣間見るというのがより正しいかもしれない。それでは、FFにおいてどのように垣間見ているのだろうか。その一つの答えがFF8のジャンクションシステムにある。そして、このジャンクションシステムはグラフィックの進化したゲームおけるプレイヤと操作キャラの関係に一つの解釈を打ち立てたシステムでもある。
ジャンクションシステムはFF8の根幹である。それはゲーム部分のみならずシナリオにも密接に関わっている。主人公であるスコールたちはジャンクションシステムを利用し召還獣を憑依させることで様々な能力を得ることができる。それはアビリティなどのスキルだけではなく、一般のRPGにおける装備も兼ねている。自由度の高いシステムではあるが、とっつき難いシステムでもあるためか評価が分かれる。システム的な細かいことはさておき、ジャンクションシステムとはある思念体を憑依させ、その力を借りて戦うシステムであると解釈していただきたい。
このジャンクションシステムの元となったのがエルオーネという少女の能力である。これまた説明が難しいのだが、簡素に書けば「ある人物の過去に、他人の意識を憑依させる」能力である。これはある人物の過去を追体験するの能力ではなく、意識だけをタイムスリップさせているようである。また、憑依している方は憑依されている人間に直接干渉できるわけではなく、意志決定は憑依されている側にある。ただ、他人に憑依されることで憑依された側は能力が上昇するようだ。さらに、憑依されている側は憑依している人間が誰かは分からないものの、何かが憑依していることにはきづいているようだ。実際、FF8のもう一人の主人公であるラグナはジャンクションしたスコールたちを「妖精さん」と呼んでいたし、妖精さんがいるときはいつもよりも無茶ができると語っていた。つまり、スコールたちはラグナたちにジャンクションすることで力を貸していたということだ。これはスコールたちが召還獣を利用するジャンクションシステムとも共通する。
スコールたちがラグナたちにジャンクションしている際に、スコールたちは何もできずラグナたちの行動ただ見ているだけである。なぜなら、ラグナたちの経験はスコールたちにとっての過去で、ラグナの物語だからだ。しかし、スコールたちの力を借りることでラグナたちは難局を乗り切っている。この関係は何かに似ていないだろうか。そう、プレイヤとスコールたち、つまりゲームの操作キャラとの関係に相似している。プレイヤはストーリー部分では操作ができず、スコールたち自身の物語には介入できないが、ゲーム部分でスコールたちに力を貸しスコールたちの物語を進めるための手助けをしていると言える。スコールたちは召還獣をジャンクションしているが、ゲーム的には召還獣を介してプレイヤをジャンクションしている構造となっている。FF8が面白いのは、ラグナたちも操作できる点にある。ラグナたちはスコールをジャンクションし、スコールたちは召還獣、そしてプレイヤをジャンクションしている。まさにジャンクションの入れ子構造になっている。
ゲームはFF8のジャンクションのように誰かの過去を見るものだ。しかし、ただ見るのではなくジャンクションのようにプレイヤが力を貸してあげる。過去なので結果は決まっているものの、プレイヤが力を貸したからこそ物語が動きエンディングへとたどり着けるのである。

MGS2 操作されることからの解放

FF8のように入れ子構造を意識させるゲームは多い。例えばアサシングリードなども入れ子構造となったゲームであるし、ストーリーも入れ子構造を利用している。MGS2も入れ子構造を意識させるゲームである。またMGS2は、プレイヤが操作キャラから解放されるのではなく、操作キャラがプレイヤから解放されることを描いたゲームである。MGS2の主な操作キャラは他のメタルギアシリーズのようにスネークではなく雷電である。他シリーズのスネークも必ずしも同一人物ではなく、雷電のコードネームも元々はスネークなのでだが見た目は決定的に異なる。スネークたちの見た目がハードボイルドなのに対し雷電はイケメンである。小島監督が女性受けをねらってイケメンにしたとの話もある。さて、MGS2では何故これまでのキャラクターであるスネークではなく雷電を操作できるようにしたのだろうか。最大の理由は操作キャラの初期化であろう。メタルギアおよび2でスネークは伝説の傭兵となった。MGSではブランクがあったものの伝説の傭兵であることには代わりはない。伝説の傭兵がゲームオーバーになるのもおかしな話だ。そして操作キャラ=プレイヤと感じるにはスネークにはキャラクター性がありすぎる。そこで、MGS2ではキャラクター性が確立されておらず,単独潜入を初めて行うこととなった雷電を起用したのだろう。
雷電は主体性の無いキャラクターである。主義主張があって作戦を実行しているのではなく、任務だから遂行しているに過ぎない。また、雷電のバックボーンも多くは語られない。雷電には何も無い。それを象徴するかのように、彼の部屋には何も無いと恋人のローズから語られる。雷電の主な無線相手である大佐やローズも彼には何も無いことを強調する役割を担っている。ストーリーもスネークたちによって語られ雷電は置いてけぼりな節がある。無線中ですら雷電は蚊帳の外の場合もある。ストーリー中はプレイヤも置いてけぼりであるから、そこは雷電の気持ちと合致する。また、プレイヤも特に意義があってゲームをプレイしているのではない。ゲームだから遊んでいる程度の理由で、その点も雷電のモチベーションと一致する。確かに、プレイヤと雷電は近いのだが、自身が無さ過ぎる雷電はへたれすぎてプレイヤが自身と重ねたくなるような操作キャラであるとは決していえない。だから、人気があまり出なかったのだろう。
雷電はプレイヤだけでなく、ゲーム中においても操作されるキャラクターとして描かれる。雷電MGS2中の作戦に抜擢された理由も、上記のように自分自身が無いからだ。自身を持たない雷電は、役割を与えることで簡単に操作することができる。まさにロールプレイである。雷電は大佐の指示通りに動く。そして、これはプレイヤも同じである。雷電は大佐に操作されているが、正確にはプレイヤを通して操作されている。つまり、大佐に支持されたプレイヤが雷電を操作していると言える。しかし雷電は作戦を通じスネークたちと接することで、またローズにより自身の過去と直面することで自己を確立していく。それに伴い徐々に雷電とプレイヤは離れていく。それに呼応し、ゲームの終盤になるにつれプレイヤはゲームをしているのだと強く感じさせる演出が増える。そして、プレイヤが操作できなくなったエンディングで雷電はプレイヤの名前が刻印されたドックタグを投げ捨てる。この演出は雷電がプレイヤから、そして役割を与えられることで操作されることから解放されたことを象徴しているかのようだ。ただエンディングにおいて雷電は操作されることから解放されるのだが、プレイヤはゲームをすることから解放されていない。雷電とプレイヤを乖離させるためにゲームをしているのだとと強く実感させるほど、プレイヤはゲームから解放されない。
プレイヤがゲームから解放されないのはゲーム内ゲーム、つまり主人公たちが冒険していた世界も実はゲームだったという構造においても発生しうる。ゲーム内ゲームでは複雑な入れ子構造となっている。ゲーム内ゲームの場合、ゲーム内でゲームをプレイしている人物がいるはずである。それが明かされる場合もあるし、明かされない場合もある。問題は必ずしもゲーム内でゲームをプレイしている人=プレイヤではないことだ。ゲーム内のプレイヤはゲームをクリアすることで解放される。それが目的である。ならばゲームを実際にプレイしている我々は何から解放されればよいのだろうか?ゲーム内ゲームはストーリーのどの時点でカラクリを明かすにしても、演出が上手くないとプレイヤを納得させるのが難しい。大体において、プレイやゲームから解放されずに終わってしまう。最悪なのは操作キャラすらゲームから解放されないことだが。

リモートコントロールダンディ コントローラの入れ子構造

これまではゲーム内でのプレイヤと操作キャラの関係を見てきた。ゲームにおける視点や、操作キャラのキャラクター性、ゲームにおけるプレイヤの役割によってゲームとプレイヤのシンクロ率は変わってくる。これらの例以外にも操作キャラとプレイヤを関連づける上で絶対にはずすことの出来ない要素がある。それはコントローラだ。プレイヤはコントローラを介してしかキャラクターを操作できない。コントローラを利用しなければ、プレイヤは操作キャラになりきれない。コントローラで支持しない限り操作キャラは動かない。格闘ゲームではコマンドを入力しなければ技が出ない。
より直接ゲーム内にプレイヤを入り込ませようとした結果がゲームセンターにある大がかりな体感ゲームであろうか。体感ゲームならば操作キャラ=プレイヤとなり得る。しかし大がかりであるが故に家庭用ゲーム機では難しい。もちろん家庭用ゲーム機であっても銃型やハンドル型コントローラは昔から存在したし、ビートマニアのキーボードや、DDR用のコントローラ、バーチャロンツインスティック電車でGO!などの専用コントローラもある。家庭用ゲーム機で最も大がかりなコントローラの一つと言えばXboxで発売された鉄騎であろうか。いわゆる専用コントローラは専用であるが故に汎用性がない。もちろん専用コントローラで別のゲームを遊ぶという使い方もあるが。そもそも家庭用ゲームのコントローラは、どのようなゲームでも遊べるために作られたものである。しかし、その汎用性故にゲームのグラフィックが進化するにつれコントローラが操作キャラとプレイヤを乖離させる要因となってしまっている。
ゲームコントローラの呪縛からの解放を目指したのがDSであり、Wiiなのだろう。ゲームのグラフィックは幾らでも突き詰めることの出来る技術である。それこそヴァーチャルリアリティへつながる技術であり、現在でも十分に綺麗に見えるが、現実と比べるとまだまだ大きな隔たりがある。また前述のようにゲームによっては、グラフィックが綺麗であるほどゲームからプレイヤが乖離することもありえる。そこで、任天堂がコントローラに目を付けた欠課でき上がったのがDSであり、Wiiという結果である。DSやWiiはゲーム機の正当な進化ではなく色物だ、という人もいるけれど、操作キャラとプレイヤをつなげる機器であるコントローラの進化を模索することは色物ではなく、正当進化の一つといえるだろう。実際にWiiには操作キャラ=プレイヤと感じさせるゲームが多い。Wii-Fitなどその最たるものだろう。WiiやDSは操作系に依存したゲームが多いとも揶揄されるが、ハードがソフトの形態を決めるのだから当たり前のことである。もちろんおもしろくないゲームもあるけども。
DSやWiiのようにコントローラ、つまり操作系を変えるのも操作キャラとプレイヤを一体化させる手法の一つだ。もう一つの方法はコントローラによる操作そのものをゲームと一体化させればよい。それが、リモートコントロールダンディというプレステのゲームである。リモートコントロールダンディでは鉄人28号のようにリモコンでロボットを操作する。プレイヤはリモコンでロボットを操作する正太郎的ポジションである。このリモートコントロールダンディにおけるリモコンはプレステのコントローラそのものである。主人公はプレステのコントローラの形をしたリモコンでロボットを操作する。それはプレイヤも同じである。通常のゲームならばゲーム中に「R1ボタンを押せ!」と言われればメタ発言であるので、笑いにならなければ興をそがれる。どちらにせよゲームをプレイしているのだと感じさせる発言でありプレイヤと操作キャラは乖離せざる得ない。しかしプレステのコントローラでロボットを操作しているリモートコントロールダンディならば乖離させられることはない。むしろ、プレイヤに自身が操作しているのだ!と感じさせる効果すらある。操作キャラ=プレイヤではないけれど、ロボットをリモコン操作しているのはプレイヤ自身だと感じるだろう。リモートコントロールダンディは、コントローラが入れ子構造になっているといえるかもしれない。

まとめ的な何か

プレイヤはゲームの中に入ることは出来ない。入ることが出来ない以上、何かを媒介とするしかない。それがゲーム内の操作キャラとなる。この媒介である操作キャラとプレイヤとの距離は様々な要因で決まってくるし、人によって感じ方が違う。中でも視点の効果は大きく、操作キャラが直接見えるかどうか、操作キャラがリアル、つまりキャラクター性を帯びているかにより、プレイヤと操作キャラの距離は異なってくる。また、ストーリーの進行の仕方にも依存する。単純に、プレイヤが操作できる時間が多いほど操作キャラとの距離は近づく。ゲーム内の選択肢を自らの意思で選択したのだと感じさせることでも操作キャラとの距離を近づけることが出来る。ストーリー重視のゲームであっても、プレイヤが導く存在であると考えれば操作キャラが勝手にストーリーを進行しても乖離は少ない。
ゲームはいずれクリアしなければならない。クリアしたらゲームを終えなければならない。つまり、媒介である操作キャラとの接続を断たなければならない。この切断を上手に演出してあげなければプレイヤはゲームを終われない。本来導くはずのプレイヤがゲームによって導かれている、つまりゲームによって操作されているとこの切断が上手くいかない。なぜなら操作の関係性が複雑な入れ子構造になってしまい、それを解体するのが難しくなるから。特にゲーム内ゲームではその入れ子構造を解体するのは難しい。
プレイヤはゲーム内のキャラクターを直接動かすことは出来ない。コントローラを介してしか入力できない。コントローラがある限り、プレイヤと操作キャラは完全に一致できない。まさにコントローラの呪縛である。その呪縛が逃れる方法の一つがDSであったりWiiである。

*1:キャプテンになると違うが

*2:主人公の名前

*3:DS版では3人だが

*4:主人公の名前

*5:主人公の名前

*6:主人公の名前