「膜」では「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を説明できない

「なぜ痴漢は痴漢をするのか」という問いを求めている田房さんの記事において、痴漢が行為に及ぶ際に、女性の方が自分の世界に侵入してきたと捉えている場合があることを、「幕」なる概念で説明しているのは分かりやすくて面白いなと感じました。しかし、「膜」の概念は「なせ痴漢は痴漢をするのか」を答えていません。

このもやっとした思いは、昨日 一つの概念で、あらゆる事象を説明するのは危うい - 最終防衛ライン3 に書いたのですが、まだうまく言語化できていない部分があるので、再度記事を書いてみます。
ポイントとして田房さんは妄想と行動の区別をつけていないため、「膜」の概念が「なぜ痴漢は痴漢をするのか」という問いの答えだと勘違いしたのではないかなと。

「膜」の内側

田房さんは、「刑事司法とジェンダー」(牧野雅子著・インパクト出版会)における、強姦加害者による「被害者の方が俺の世界に入ってきた」という告白を「膜」の概念で解釈しています。被害者が加害者の「膜」の内側に入ってきたから、犯行に及んだという説明は実に分かりやすいなと思います。「膜」にはスペースやテリトリーの他にも、その内部にいるものを捕獲したイメージもあることから、痴漢や強姦の加害者の心理をうまく説明しているように感じます。
ただし、「膜」の概念は田房さんが最も知りたい「なぜ痴漢は痴漢をするのか」という問いの答えとはなり得ません。「膜」の概念は、痴漢や強姦の加害者が、なぜその被害者に手を出したのか、を説明しますが、なぜ手を出したのかは説明しないからです。


「膜」の概念は、パーソナルスペースに近いのでしょう。親しくない人とは物理的に距離を置きたいですし、親しい人でもあまりに近いと不快に感じます。一方で、急にパーソナルスペースをつめられると、つめてきた人に好意を抱くこともあります。たとえば、ボディタッチをしてくる人に好意を抱く場合などです。女性を壁を背に立たせ、男性が壁に手をつき女性を追い詰める「壁ドン」も、パーソナルスペースをつめることにより好意が生じる例でしょうか。あるいは、元々好意を思っている相手に対して、さらに好意が増す状況といった方が適切かもしれません。どちらにせよ、自分の「膜」に入ってきた人に好意を抱くのは誰にでも起こりえることです。これは、「膜」という空間で無くても、テリトリーや自分が興味のある分野でもよいでしょう。痴漢の加害者が「被害者の方が、自分の世界に入ってきた」と感じるのも、同じ心の機構と考えらます。

痴漢と普通の人が異なるのは、痴漢という行為に及ぶか否かの違いしかないでしょう。
ボディタッチをしている女性は、その男性に好意を抱いていないが、された男性がその女性に特別な感情を持った場合を考えてみましょう。男性が、いきなり女性の胸などを触ったら痴漢ですし、性的な発言をすればセクハラになります。一方、男性が女性と付き合うために努力して、女性へアプローチするのは痴漢でもセクハラではありません。ただし、セーフとアウトの境界は非常に曖昧で、つけまわすとストーカーになりますし、誤ったアタックはセクハラやパワハラになってしまいます。
「膜」の内側に来たから惚れたわけですが、実際にどのような行動を起こすのかは人によって異なります。通常は、「膜」の内側に来たからといって誰もが痴漢をするわけではありません。つまり、「膜」の概念だけでは痴漢が痴漢をする理由は説明できません。

妄想と行動

田房さんは、「膜」の概念で「なぜ痴漢は痴漢をするのか」を解決できたと勘違いしています。勘違いし理由は、妄想と行動を区別していないからでしょう。田房さんは妄想は必ず実行され実現すると考えているように感じられます。それは、「膜」の概念をどぶろっくのネタに拡張していることからも推察されます。

どぶろっくは、男性が女性のなんでもない行動に対して、自分に惚れてるんじゃないかという妄想をネタにする芸人です。男性の女性に対する勘違いネタが不快で笑えないというのはあり得る話です。しかし、田房さんがどぶろっくを笑えなくなった理由は「膜」の概念によるものです。

田房さんは「夜道で前を歩いてた女が、こちらを振り返って急に歩くペースを速めた。もしかして、俺を招くために部屋を片付けたいんじゃないのか?」というネタを笑えないと言います。このネタは妄想に過ぎません。実際に行動に移した、というネタではありません。妄想した後に、その女性の後をつけて家に押しかけたというネタなら、まさにストーカー、ともすれば強姦加害者の発想でしょう。ただし、一昔前のコントならありそうなネタですが。

田房さんは、どぶろっくを笑えない理由として「オレオレ詐欺」に見立てたネタで説明します。

お笑い芸人がギターを持って「老人の家に孫のフリして電話して助けを求めてみたんだ もしかしてだけど 間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」と歌っても、面白くないし不謹慎だしお笑いとして成立しない。それは、「オレオレ詐欺」という犯罪が実際にあることをみんなが十分に知っていて、その犯人はこういう発想で犯罪をしているということがパッとつながるからだ。そして同時に「老人に対する侮辱」も感じ、不快な気持ちになる。

このネタが成立しないのは「オレオレ詐欺」が犯罪であると認識されているからです。しかし、どぶろっくのネタとして、このたとえは正当ではありません。上記のネタでは、実際に電話をかけており「オレオレ詐欺」を実行しているに等しい状態にあります。田房さんは「妄想」と「行動」の違いを無視しています。あるいは、同じモノと捉えているのかも知れません。どぶろっくのネタでたとえるならば、「老人の家に孫のフリして電話で助けてを求めてみたら、もしかしてだけど、間違えて俺の口座に振り込んでくれるんじゃないの」とすべきかなと考えます。これが笑えるか笑えないかは微妙なラインですが、不謹慎ネタとしては成り立っているように思います。


どぶろっくのお笑いは、本来外に出ることは無い「妄想」を表に出しているからネタとして成立しています。また、ネタとして成立するには「ありえない妄想である」こと共有されている前提条件があります。
「妄想」を口に出してしまうのはセクハラに該当することもあるでしょう。妄想そのものが不快であると思うのは当たり前の感情です。どぶろっくのネタは妄想を表に出してはいますが、舞台上の構造としては妄想を心の中で思ったという演出になっています。つまり、妄想を考えたというネタなわけで、実際に痴漢のような行動を起こしたわけではありません。どちらにせよ「膜」はあまり関係がありません。

妄想は自由

田房さんの主張は、痴漢のような妄想をすることがいけないことだ、と言っているように感じられます。痴漢のような妄想をするから、痴漢を実行するのだと考えているのでしょうか。しかし、痴漢のような妄想をしても、実際に痴漢をしない人もいます。これは痴漢に限りません。実際に実行するわけでは無いが犯罪の妄想をすることはあるでしょう。「店員がいないから、今なら食い逃げできるんじゃね?」などとネタとして考えることはあるんじゃないでしょうか。妄想した後、その妄想を口にしてよいか、行動に移しても良いかを判断するのが普通の人でしょう。どぶろっくの場合は、その妄想を表に出しているから、おかしいという面もあります。

妄想するのは自由です。妄想するのがダメならば、惚れた惚れられたという関係を否定することにも繋がります。


強姦加害者が「被害者の方が俺の世界に入ってきた」事例に関して、「膜」の概念を引き合いに出し、「膜」の概念が他でも成立する場合があるかも知れないね、と別の視点を提供するのは興味深いなと思います。
例えば「膜」の内側に入ってきたら、痴漢をしてもよい、セクハラ的な言動をよってもよいと考えている男もいるから気をつけようとか、そう考えている男性はいませんか?と気づかせる点では、わかりやすい概念だと思います。
しかし、「膜」の概念は「なせ痴漢が痴漢をするのか」、「なぜ性犯罪者は性犯罪を犯すのか」を説明しません。そして、「どぶろっく」のネタを引き合いに出すのは見当違いです。妄想と行動の違いを区別できていないと言わざるえません。これは、ともすると痴漢と同じ発想ではないでしょうか。