与えられることに慣れすぎたゲーマー

これ、ゲーマーじゃなくてもユーザーでも良いのだけど。

Little Big Planetピタゴラスイッチやりたいな

ようやく、PS3の機能を活かし、個人的に欲しいと思うゲームがMGS4以外にも登場しましたわ。これで、ピタゴラスイッチとか作りまくれば面白そう。さらに、他人が作ったコースをオンラインで共有できるのは良い。この手のゲームの限界は、自分の限界だったが、オンラインならば、自分がダメでも大丈夫。恐らく、ガイジンがとんでもないコースを作ってくれそうだ。そしてオンラインにより他人の発想を容易に取り込めるのも良いことだ。個人的には、遊び場だけ提供して後はほったらかしなニコニコ的発想が好きである。

ただ、痛いニュースの反応を見ると、GK、妊娠は置いといて、自分が思っていた以上に批判が多かった。主な批判の理由は、ゴールが無いのですぐ飽きるなんだけど、なんと他人任せな思考回路。自分で楽しむと言う発想は無いのか。「遊ぶ」という観点で言えば、これほどまでに自発的に遊ぶことを考えたゲームは無いだろう。むしろ最近のゲームは「遊ばせる」ものばかりだ。そもそも、遊んでもらうためにおまけ的にストーリーがあったのに、いつの間にかストーリーが主眼となっている。構造的にねじれていると思う。だからゲームは映画でもアニメでもないと何度言えば って話だ。ちょっと、遊ばされるゲームに慣れすぎてるんじゃないか。
確かに、ストーリーの素晴らしいゲームはありますが、映画などと比べるとそれ程でもない。プレイヤーとキャラを同一視させることによる、叙述トリック的ストーリー展開はゲームにしかできませんが、元々ゲームはストーリーを語るのにあまり向いてない。
例えば、シナリオが良かったと思うRPGをシナリオ目的でやり直してみると良い。恐らく、最後まで行き着けずに挫折することでしょう。これは、レベル上げなど「単純作業」が面倒だから。だからと言って、チートしてやってもやっぱり最後まで行き着けないでしょう。エンカウント0にしても、フラグ立のお使いもあるわけで、やはり「単純作業」はなくならない。この「単純作業」部分こそがゲームであり、ここが楽しめなきゃ、ゲームのシナリオが良くてもゲームとして全然楽しめないのは自明の理なのだが。

遊ばされるゲーマー

最近のゲームは、チュートリアルがあって説明書読まなくても始められるのはファミコンと比べると素晴らしいことだと思います。ただ、ここ最近はちょっと説明しすぎなんじゃねーの?と感じることも。例えば、トワイライトプリンセスは最初のチュートリアル部分で投げたった人が多かったような。プレイヤーは、さっさと剣を振りたいのに、その前にウダウダお使いするのはイライラ。さっさと自由にゲームやらせろと感じる。また、2週目も同じ事やるのが本当に面倒。もう、その操作知ってるから・・・。
ゲーム=遊びの楽しみとは、自分で試行錯誤すること。自分で試行錯誤して、自分で気が付くから面白い。何から何まで説明されたら、それこそ「単純作業」の繰り返しである。萎えさせない為の操作説明 にもあるように、何から何まで一から十まで教えたらダメで面白くない。これは教育でも同じですけど。

さて、メーカーはユーザビリティを考え、ゲームを遊んでもらうために、手取り足取り教えるチュートリアルを、そしてゲームを続ける餌であるストーリーに力を注いできた。その努力が実ってか、ライトユーザーと呼ばれる層がゲームを買うようになった(注:現状ではDSにまたあらなた層が生まれてるがそれは割愛)。
ゲームの「ゆとり化」で、「ゆとり」という言葉が不愉快で仕方ない にあるようにこれはこれで良いことなんだけど、人間は便利になりすぎると自ら工夫することを忘れてしまう。ゲームの「ゆとり化」で、自ら考え、試行錯誤する人が減ってるのではないか。だからこそ、「映画のように美しいCG映像で描かれた異世界を冒険するゲーム的なゲーム減った」から たった1年で一変したゲーム産業、E3は規模縮小 などという寝ぼけた記事があったり、痛いニュース(ノ∀`):PS3の新感覚ゲーム「Little Big Planet」 米ニンテンドーのトップが賞賛 のこんなゲームつまんねーよ発言があるんではないか。

自分で工夫することの楽しみ

さて、ゲームとはあんまり関係ないのだけど、先日ウィルコムより新しいスマートフォン、Advanced/W-ZERO3[es]略してアドエスが発売された。ここ最近はアドエスに首っ丈で記事を書く時間が作れないくらいである。
アドエスに首っ丈なので、対話できるUI、話を聞かないUI みたいなiPhoneアドエスを比較し、アドエスを批判する記事を読むと、少々イラッとする。正確には、Windows Mobile 6(以下WM6)の批判記事なんだけど。
iPhoneは触ったことはありませんが、動画をも見る限り操作性はかなり分かり易く、ガジェット好きな私としては興味津々であります。流石、Appleの開発したUIだけあります。一方、WM6は全然ユーザビリティじゃない。兎に角分かり難いいの極み。デフォルトのままじゃ使えないと言っても過言ではない。
ただ、これはAppleとMSの設計思想の違いによるのでしょうが。Appleは自社のOSを自社のハードに合わせれば良いが、MSは様々なハードに対応しないといけない。そのため、スペックがマチマチとなハードにOSをあわせないといけない(Vista見てると?だけども)。だから、Appleはユーザーに使いやすい設計ができるし、MSはユーザーよりもハードに目を向けている。これがMobile機器でも同じになるわけで。

さて、対話できるUI、話を聞かないUI にて「WM6で何かをするのは、数歩あるくごとに靴ひもがほどけてしまう靴で旅をするようなものです」とあるんですが、これには同意しかねる。僕にとって通常の携帯電話は何もできないので足かせにしかならない。そこら辺はiPhoneも同じでユーザーネイティブのプログラムはセキリュティ上導入できないことになっている。雁字搦めの靴で旅に出るくらいなら、まだ自由に歩ける靴ひもがほどける靴で旅しますわ。まぁ、これは単純に自分でカスタマイズするか否かの好みの問題ですが。好みの問題なのだが、既存の携帯電話では自分のやりたいことができないので、自由だが、自分でやりたいことのできるスマートフォンを使ってるわけですよ。自分で工夫することが楽しくてしょうがない人の意見ですけどね。

自由度のバランス

技術の発展により、世の中便利になりユーザーフレンドリィな社会になりました。これはゲームも同じ。ネットの発展により、ゲームで詰まっても検索すれば攻略方法が簡単に見つかる。技術の発展により、ゲームの容量が増え、操作の説明をゲーム内で行える。ゲーマーが楽してゲームができるようになった。ファミコンの理不尽さに比べると天国のようです。しかし、便利になりすぎた、そしてゲームがビジネスの根幹となったことで、ゲーマーに遊んでもらうためのゲームも多い。ゲーマーは遊んでいるつもりで遊ばされている。
技術が進み自由度の高いゲームが作れるようになったのに、メーカーはCGバリバリのムービーゲームばかり作る。これは、自由度が高いとゲーマーが何をして良いのか分からないからなんだけど、逆にムービーゲームは一本道過ぎる。何で両極端しかできないのか。自由度のバランスが難しいのは重々承知してますが、ムービーに力を入れる前に、一旦考えていただきたい所存です。そして、ゲーマーも自ら工夫することを忘れてはならんと思うのですよ。買って、少々プレイしてクソゲーと認定して、売ってしまうのはどうかと。まぁ、世の中擁護しようも無いクソゲーもありますが。今一度、ゲームを遊んでるのか、ゲームに遊ばされてるのか考えた方が良い。特に積んでる人は。