「さようなら エヴァンゲリオン」の意味

昨日、Twitter のベータ機能である Spaces でシン・エヴァンゲリオンの感想を語り、様々な気づきがあったのでメモっておく。
ホストは ぼうくん (@VoQn) | Twitter。その他にも、色々な人と感想を述べ合った。
これ以外にも色々と話した気はするが流石にまとまらない。とりあえず、今の考えや気持ちを残すために取って出しとして投稿。また思い出したり、考えがまとまったら新たなエントリーを書くつもり。


様々な相補性のある話だった。
第三村の作劇上の役割は色々あるけれど、ひとつは日常パートであろう。それと共に、シンジが再起動するためのパートでもある。
皆、シンジに優しいがトウジ、ケンスケ、そしてアスカは友であると共に父親の代役として機能している。
ニア・サードインパクトは、ニアサーと略されている。何度も使われる言葉でもあろうし、忌諱したい言葉でもある。人々は自然と、そう呼ぶようになったのだろう。言葉の再定義は、劇中で大きな意味を持つ。
成長していく、アヤナミシリーズこと「そっくりさん」は微笑ましいが二回目見たら泣くかもしれない。この時「そっくりさん」は色々な「おまじない」をヒカリに教えてもらう。ヒカリは作中で言霊を再定義していく。その中で「さようなら」は「また会うためのおまじない」とそっくりさんに伝えていた。


改めて考えると「さらば全てのエヴァンゲリオン」とは、全てのエヴァンゲリオンにまた会うためのおまじないとも取れる。
もちろん、庵野監督によるエヴァンゲリオンは、シンで完結した。シンジの望んだユイによって創造されたのは「エヴァンゲリオンのない世界」である。ラストパートは、それが我々の世界であると解釈したが、同時に「エヴァンゲリオンが終わった世界」を意味している。
ただ、マルチバース的な解釈を残したことで、庵野監督以外によるエヴァンゲリオンの可能性を残したとも取れる。たまたまであるが、ハサウェイの予告編が流れたので余計にそう思える。


また、庵野監督自身もアニメーションは辞めない暗示とも取れた。
ユイに背中を押された後に、アニメーションの色が消え原画へと変わっていく。その内、動きもなくなってしまうが、マリが迎えに来るとアニメーションが復活する。マリはモヨコであり、彼女によってアニメーションに戻ってこれたことを表しているのだろう。エヴァンゲリオンは監督の心情が反映された作品である。新劇場版では徐々にさらけ出すようになっていった。シンでは、特にさらけ出しているように感じる。年齢のせいもあるとあろうが、監督なりのアオイホノオだったのかなとも。


第三村から一挙にラストまで駆け抜けてしまったが、一旦戻そう。このパートはなかなか言語化が難しい。そっくりさんがたくさんの人々との中で成長していく。ゲンドウと冬月しか知らない世界とは全く違う。逞しく生きる人々は、震災から復興する人々でもあろう。その点で、公開はギリギリであったし、結果的に3月8日になったのはイコン的な意味でもいいタイミングだった。
さて、言うまでもないことだが、アスカとケンスケの距離感である。アスカはケンスケだけを名前に由来するケンケンと呼ぶ。特別な関係性にあるからこそだろう。ただ、この特別性は解釈の余地がある。ワンダースワンジョイスティックになっているのは、ケンスケが修理なり、エミュレータ機を作っているのだろうか。


シンジは皆の優しさで徐々に回復していく。そっくりさんを「アヤナミ」としか名付けられず、「アヤナミ」はLCLへと戻ってしまう。これが最後の一押しになったのであろう。第一話からして、ナミシリーズの犠牲によって立ち上がっている。つまり、綾波と式波。
さて、シンジがそっくりさんを「アヤナミ」としか名付けられなかったのは、ミサトが加持との間にできた子供に「加持リョウジ」と名づけたことにも通ずる。ミサトが息子を「加持リョウジ」と名づけたという描写はないが、状況証拠的には彼女がそう名づけない限りは、周囲が彼を「加持リョウジ」とは呼ばないだろう。


加持はサードインパクトを止めるために自らを犠牲にしたが、その際にミサトの中に子供がいなかったら一緒に死んでいたと語られている。また、加持の目的は人類の生存ではなく地球にあった種の保全であった。加持はネルフに所属しつつ、ヴィレの前進となった組織、また破の海洋施設とも関連がある組織において、種の保全活動を行っていたのだろう。スイカの栽培も伊達や酔狂で行っていたわけではないのだ。ヴンダーの強奪も加持とその組織によるもので、彼らは播種船としての運用を目的としていた。つまりは、ノアの方舟である。第三村で農業を根付かせたのも、彼らであろう。

加持によってサードインパクトは止められたが、彼の願いは人類の存続にあったわけではない。 そのような背景があっても尚、ミサトは戦いの身を置くためヴンダーを本来の戦闘艦として運用た。また、息子を「加持リョウジ」と名づけた。その代わり、息子には会わないと決めた。ミサトは戦いの人である。最終決戦前にはシンジ送りだしていたが、息子に見立てていたようにも感じる。
シンジに放たれミサトが庇うことで彼女の体内に留まった銃弾は、分解性であった。この弾丸が、Qおよびシンにおける、あるいはヴィレの標準装備かは不明である。そもそも、この世界で銃を向ける相手は人間しかいない。人的リソースが不足しているため殺傷性を抑えている可能性がある。もしくは、怪我をさせた方が殺すよりも戦力を落とすとの見解もある。


分解性の弾丸であったことから、DSSチョーカーを付けないシンジへの発砲許可は必ずしも射殺を意味しないのだろう。もちろん、ゲンドウのように頭に撃てば即死するはずだ。
躊躇無く発砲したリツコは、これまでとの違いを見せつけた。そして、脳漿を拾うゲンドウ。人でないものとなったゲンドウが、それを行うのは興味深い行動である。本来必要がないはずだ。ただ、人は怪我で落とした臓器を反射的に拾ってしまうという。人の頃の名残とも、あるいは人でないものとなったことの強調とも取れる。


殺すつもりならアスカのようにDSSチョーカーを装着したはずだ。ただし、シンジもアスカ達同様に爆薬付の部屋に隔離されている。エヴァンゲリオンパイロットの力が恐れているのもあるだろう。彼らはインパクトを引き起こす因子である。また、アスカにおいては第11使徒が封印されている。この使徒の封印が、いつどのようになされたかは不明である。実際に11使徒が現れて弱体化後にアスカに封印されたのか、もしくはマグマダイバーのように成長前の使徒がアスカの中に封印されたのか。(二回目を見て確認しましたが、第九でした。つまり、浸食された第九使徒をそのままアスカに封印したのでしょう。となると、第11はシンジでしょうか) 最終的に、アスカは封印を解き自らを使徒と化す。また、シキナミがシリーズだったことも明かされる。惣流から式波への変更は、そのような意図があったのだろう。アヤナミシリーズの相補、もしくはネガに位置するのがシキナミシリーズである。惣流と式波は異なる。式波のオリジナルが惣流だったのかは分からない。ラストシーンのアスカは、イマジナリーラインを超える意味もあるが、成長していた。つまり、エヴァの呪縛からの解放をも意味する。つまり、式波は救われたが、果たして惣流は救われたのだろうか。
髪の伸びた綾波が「そっくりさん」の記憶を持っていた。魂はコピーできない。オリジナルの魂に焼き付けられるのだろう。そう考えると、惣流も救われたと言えるのではないか。


ところで、自らのATフィールドに自らの攻撃が阻まれる展開は、意外にもこれまで描かれていなかった。そして、最後もゲンドウ自身のATフィールドで、彼の望む人類補完計画は実現できなかった。
巨大綾波は現実と虚構の間にある規定線=イマジナリーラインを超えるためリアルに近い描写になっている。また、わざわざ作中人物に「なんか変」と説明までさせている。つまり、実際に変なのであろう。ただ、我々と作中人物では規定線=イマジナリーラインが違うため、受け取り方が違うはずだ。これは、エヴァンゲリオンイマジナリーにも象徴される。シンジは黒いリリスと見て取ったが、恐らくゲンドウには違う姿に見えていたはずだ。


それにしても、冬月はゲンドウに甘過ぎである。恐らく、ネルフとして登場するエヴァンゲリオンは、冬月がアレンジしたものであろう。パリで登場する連結ドローン型、そしてポジトロンライフル搭載機と電力変換援護型。チャージが早いのは、Wサイクロントロンであるのと、エヴァンゲリオンシリーズを動力源として使っているからか。恐らく、S2機関に相当するエネルギー源を内蔵しているのだろう。この点を考えると、バチカン条約も納得である。兵器として運用し、人類同士で戦った際の損害は計りようがない。
最終的に、気力で保っていた体の形が崩れLCLとなる冬月だが、どんな精神力してるんだ。マリとの対峙を見るに、マリは恐らく漫画版の設定を踏襲しているのだろう。オリジナルかは不明であるが、恐らく冬月付のゼミにいた彼女なのだろう。


ゲンドウの起こそうとしたアナザー・インパクトを止めるため、そしてエヴァンゲリオンのない世界のためアディショナル・インパクトを起こすため、人類が槍を創成した。マヤの若い男に向けた言葉が反転するのも、またよい。
それにしても、ヴンダーの脱出ポットはなぜ強固に取り付けられていたんだろうか。推力を確保するまで固定化する必要があったから、宇宙で射出することを装丁した播種船形式ではダメだったのだろうか。


最後の戦いは異様だった。アニメーションがおかしい。そして、特撮のようなセットで戦っていることに気がつく。楽屋落ちであるが、それはTV版のオマージュでもあるだろう。TV版で伝えたかったことかもしれない。
この戦いはアニメーションとしてみると、おかしいが楽屋裏特撮としてみると、アニメーションとしての不自然さが生きてくる。Qにおいて、ヴンダーと戦艦がピアノ線に釣られたような演出があったが、アニメーションで特撮的効果をねらったのだろう。この辺の、3DCGの不自然さは意図的なものだろうと思う。細部まで拘る庵野監督がリテイクしないものだろうか。巨大綾波に対する首なし綾波の群れは、一昔前のCG風である。ただ、恐らくこれも違和感の演出なのだろう。巨大綾波の登場以降、写実あるいは現実へと寄せていく演出が目立ってくる。
セットの戦いは、やがて撤収作業へと移っていく。映画の終わり。物語の終わりである。その過程で、シンジは綾波や式波を送り出していく。これも、やはりTV版の最終回を思わせる繰り返しだ。

エヴァンゲリオンは碇家の物語であり、つまりはユイの物語だ。ユイ黒幕説は、以前からしばしネタになる仮説だ。実際、ユイの手のひらの上だ。しかし、ユイやゲンドウがいなくても、ゼーレによって人類補完計画は達成されていたはずだ。ゲンドウの目的は、人類補完計画により再びユイに相まみえることであったが、その結果はゼーレの目的も達成されている。故に、ぜーレはゲンドウの勝手を黙認していたのであろう。


ユイの目的は、人類補完計画の無効、あるいはそれを超えた先にあった。そのために、自らが依り代となった。そうすれば、ゲンドウが追いかけるだろう。またシンジに託したとも取れる。
ゲンドウはユイに会うために人類補完計画を遂行した。しかし、シンジがいなければゲンドウはユイに出会えなかった。ユイは人類補完計画そのものを無効化し、エヴァンゲリオンのない世界の依り代として待機していた。ユイは人類補完計画よりも上位の存在となっている。つまり、ゲンドウが人類補完計画を発動させても、その理を外れたユイには出会えなかったであろう。
シンジと話し合ったことで、ゲンドウはシンジの中のユイを感じ取ることができた。実際にユイに出会えたのは、シンジだけだ。ユイがエヴァンゲリオンのない世界、つまり我々の世界を創世する後押しをした。シンジはマリに連れられて、マイナス宇宙から脱出した。綾波や式波は、シンジによって送り返されている。つまり、ゲンドウとユイの魂は帰ってきていない。現実における、シンジは天涯孤独なのだろうか?


ラストシーンのシンジの声を緒方恵美が演じるべきだったという意見もある。緒方恵美なら声変わりしたシンジも演じられただろう。しかし、成長したことの証として神木隆之介が演じたのだろう。
きっと、宇部興産で働いているのだ。ある意味で、実写版エヴァンゲリオンの可能性も示唆される。しかし、シン・エヴァンゲリオンの前にはそれも許せる。
さらば、全てのエヴァンゲリオン