はてなブックマーク考

はてなブックマークに関して思う事はあるが、様々な要件が絡み合っており複雑だ。一つのエントリとしてまとめるのは難しくまた長大になる。そこで今回は、それぞれの要件を個別のエントリーとした。

上記3つがはてブにかんするエントリ。下2つはそれぞれの補償といった感じ。ブクマする場合は個別にしても良いですし、まとめたい場合は http://d.hatena.ne.jp/lastline/20080407 にブクマするなど。ニュースで紹介する場合は気になったエントリだけ紹介したりと好きにしてください。

はてなブックマークが異様に見えるのは、本来個別のコメントを一覧できるようになっているから。集まるとなんでも気持ち悪い。コメントにある方向性が見て取れると場合もあるが、誰かが扇動していると言う訳ではない。本来は個別のn人である。
コメントが一覧できるページが勝手に生成される点も異様なのかもしれない。しかし、リンクは参照にしか過ぎず自由にできる仕組みである。これも、リンクを中心として集まっているから異様に見えるだけである。
はてブを陰口だと考える人もいるが、公で誰でも見れるしアクセス解析などで参照できるのだから陰口ではない。確かに、はてブを知らない人にしてみれば陰口で知っている人と知らない人あるいは知らなかった人には大きな溝がある。しかし、2ちゃんねるやその他掲示板で自身の書いたエントリに関して自身の知らぬ間に議論が起こるのはインターネットの仕組み場避けられない。
はてブは個別に反論できないから卑怯だと言う話もある。反論するなら、エントリに追記、あるいは新たにエントリを書いて誘導するなどの方法もある。個人的には、スルーが一番精神衛生上良いと思う。

はてなブックマークは何故異様に見えるか

僕自身ははてなブックマークを使ってるので異様には見えませんが、はじめて見た人にとっては異様に移るようだ。

個別のn人

はてなブックマーク(以下はてブ)はソーシャルブックマークの一つである。サービス開始は2005年2月(正式サービスは8月)。同時期にMM/memo などもサービスを開始している。日本で活発なソーシャルブックマークの一つで何かと議論になるサービスである。

はてブが異様に見えるのは本来個別に存在する筈のコメントが集合しているから。個人ニュースサイトやブログである記事を取り上げる際に個々人がコメントを書くが、それらのコメントはサイトやブログ内のみに存在し一堂に会する事はない。
はてブミニブログの一つと言えるだろう。ネットで見つけた記事やニュースを収集するツールとして便利である。コメントもつけられるので、その時に思った事をメモできるし、後から検索する際も見つけやすくなる。これらのコメントが各々のブックマーク上に個別に存在するだけなら異様には見えないだろう。はてブでは、それらのコメントを一覧する事が可能だ。本来は個別のコメントであるが、似たようなコメントばかりだと誰かが扇動しているのではと感じる事もあるだろう。影響のあるのアルファブックマーカーによりコメントの指向が決まる場合も確かにあるが、本来は独立したコメントだ。個別の11人ならぬ、個別のn人。
また、コメントを一覧できるページが勝手に生成される事をもって異様だと感じる人もいるだろう。しかしこれもインターネットは勝手にリンクをでき、はてブはリンクを生成する際の手間を省いているに過ぎない。はてブに限らず、2ちゃんねるなどで勝手に自身の書いたエントリの感想を知らぬ間に書かれることはあるわけで。自動ニュース作成G もその中で勝手にコメントができるシステムだ。個人ブログのエントリが投稿され、勝手気ままな感想や議論が成されることもある。本人の意図しない所で議論が発展するのがネットの仕組み上の宿命であり、面白さでもある。

はてなブックマークは陰口か

はてなブックマークを陰口だと感じている人はそれなりにいるようだ。そのため、何度か話題に上る。
陰口とはその人のいない所で発せられる悪口である。「その人がいない」という文面から考えると、ネット上の悪口はほとんどが陰口になるはずだがあまりそのような論調は見ない。ネット上での陰口は、見る人が見れば明らかにあるサイトに関する悪口なのにそのサイトの名前やURLを記していないことを指すと思う。この時、アクセス解析には残らないので悪口を書かれたサイトは偶然に、あるいは誰かに教えてもらわない限り気付く事は無い。日常での陰口も本人に気付かれないために本人がいないところで悪口を言う訳で、陰口の本質は本人にづかれない事であろう。
以上にように考えた場合にはてブは陰口か。いや陰口ではないだろう。確かに、はてブを知らない人にしてみれば陰口に見えるかもしれないが、URLを明記されているし一部の人にしか見られない場ではない。ネットでURLを表記する場合、mixiの友人まで公開のような場で悪口を書かない限り陰口とは言えないのではないか。
はてブが陰口でなくても反論ができないあるいは難しいという点で、はてブは卑怯だと言う人もいる。確かに、はてブの一覧ページで個別の意見に応えるのは難しい。ブログのコメント欄ならば個別に対応できるが、はてブでは一人一行であり100文字しか書けない。
個人的に、はてブに対する反論はブログでやるしかないかなと。追記したり、新たにエントリをかいてセルフブックマークしてその記事に誘導したり。また、「反論するなら自身がエントリ書いてトラックバックしろよ」と思うのも精神衛生上良いかもしれない。

なぜブログのコメント欄にコメントせずにはてブにコメントするのか問題

はてなブックマークの問題として、どうしてブログのコメント欄にコメントしないとかと疑問を投げかけられることもある。その理由は様々だろう。
反論されたくない卑怯なコメントもあるだろう。ただ、新聞などのニュースやコメント欄の無いブログもあるので難しい。反論されたくないというか、ブログの管理人とは交流を深めようとは思っていないケースもあるだろう。ならばなぜ、オープンにしてるのかと問われれば僕自身は他人の自己完結したコメントが見たいから。
そもそも、はてブのコメント欄は議論には向かない。議論をする所ではない。ツッコミには向いてるかもしれないけど。

無断リンク禁止宣言の危険性

ナイーブなのは増田の方でした。
この増田くんは、日常で他人の会話に割り込んで、その会話の内容に対して議論・反論するということが行われていないから、無断リンクや無断トラックバックはおかしいと感じていたようだ。また、インターネットは誰からも知られずに使う事もできるし、仲間内だけで使う事も可能。無断リンクされることなくコミィニティが存続する事もあるだろう。日記的な使い方をしてるなら、議論・反論を望んでいる訳では無くただ平穏に過ごしたいと思っているだろう。そのような家的なユーザーが一定数いるのだから以上無断リンクしないマナーも必要だという主張は理解できなくも無い。しかし、眼前に「無断リンク」できるという現実があるのだからその主張は悲しいけど理想論だ。悪意を持って無断リンクする人は必ず存在する。
無断リンク禁止」と宣言すれば、リンクを制御できると誤解する人を生み出す危険性だってある。同様に、リンクフリーを宣言することは、リンクフリーでないこと=「無断リンク禁止」を宣言することも可能であると考える人を生み出す危険性がある。リンクを制御=来る人を制御できるという誤解はmixiの炎上のようにネットで書いてはいけない事を書いてしまう人々を生むだろう。だからこそ、「無断リンクはマナー違反」という考えは危険だ。
ホームページという誤解がサイトやブログに「家」というイメージを植えつけた一面があるように感じる。「家」だと思うのは勝手なんだけど、その家は入り口らしきものはあるけど実際は扉、壁すらも無い家である。知識があれば家に壁を作ったり、入ってくる人を選別する事も可能ですが、色んな人がいるのだからマナーだけで壁を作る事はできない。「家」のような仕組みを求めるならそれ相応のサービスを利用すればいい。
むしろ、ネットは他人の議論に介入できるから面白いのだと思う。日常ではレストランなどでとなりの会話が気になっても絶対にツッコミは入れられない。例えば、ガソリンを買い溜めしようなんて紹介しているサイトがあったら、たとえ個人の日記でも ガソリンの買い溜めはダメ絶対 と容赦なくツッコミを入れると思う。

無断リンクの歴史(推測)

  • 1990年代前半まで(黎明期)
    • リンクは自由(それが前提)
  • 1990年代後半(個人サイトの黎明期)
    • リンクする際は連絡すると言う風潮→大手は数が多くてさばくのが面倒→リンクフリーですという但し書き→リンクする際は連絡ください→リンクする際は連絡するのがマナー→無断リンク禁止の誕生?
  • 1999年〜2000年頃?(個人サイトの発展)
    • リンクフリー派と無断リンク禁止派はそれぞれ別の生存圏。小競り合いが目立ち始める?
  • 2001年頃(IT企業以外もサイト開設)
  • 2002年頃?(ブログの台頭)
    • 無断リンク禁止という主張は合理的でなく、マナー違反である」といわれ始める?(ブログツールの登場でリンクが容易になったから?)。リンクフリー派でなかった層がリンクフリー派に?
  • 2003年頃〜:無断リンク禁止反対過激派の出現?
  • 2006年頃〜:「無断ソーシャルブックマーク禁止」派の出現(はてブサービス開始)
  • 1999年、事業会社としてNTT-Xが発足し、gooは実験から商用サイトとして本格的なスタートを切った
  • 1999年 infoseek 日本法人が設立される。
  • 2001年8月 - 日本法人のグーグル株式会社を設立。

コミュニケーションだって一部からしか始まらない

ブログもネットも人間が発言するものだから、その人が全体としてどういう活動をしていて、その中でどういう発言をしているのか

恣意的に抜き出して申し訳ないが、全体を把握するのは難しいと思うな。だからこそ「浅く広くよりも、狭く深い方が自分は好き」という発言が続くのだろうけど。
記事を読むか人を読むかについては、著者で読むか、内容で読むか にも書いたけど最終的には内容じゃないかな。どんなに好きな漫画家でも、内容が面白くなければ切る。そもそも、読み始めるきっかけって人じゃなく内容でしかない。最初は小さな接点だったが、漫画家の感性が合えばそこから接点が大きくなっていくのを感じるだろう。
記事から入るってのはコミュニケーションでも同じだと思う。自分の知人やネットで知り合った人との交流の場としてサイトを運営しており、新たなる交流も見つけたいと思っている場合。この時、人となりを見て欲しいから記事単体で自身を判断して欲しくない、と言うのは確かに分かる。記事はその人の一部でしかなく全体では無いからだ。しかし、一見さんがそのサイトの人と交流しようかどうか判断する基準は記事単体からだ。ネット巡回中に趣味の合いそうな人を見つけ、どういう人なのかを見極めるためには、最近の日記なりエントリを読んで判断するしかない。はっきり言って全体を見通すの大変だ。これはネット以外でも同じ事。初めて出合った人との接点は非常に小さい。会社なら会社、サークルならサークルだけという繋がりでしかない。そこから徐々に趣味が同じだったり、似たような嗜好だったりという事が分かってきて交流が深まる。相手の知らなかった一面を知っていくのも楽しみの一つだろう。
サイトには、その人がこれまでネットで活動した事が記録として残っている。サイト全体を見れば、どのような活動をして、どんな発言をしたかを知ることはできる。「本人のこれまでの軌跡」がネット以外と大きく異なる点であり、ネットの面白味である。とは言うものの、それも自身の一部でしかないわけで、とても全体とは言えないだろう。
まぁ、だから実際に会って話そうってことなんだろうけども。はてなユーザー全体が記事単体の情報だけしか求めてないってことは無いだろう。はてな疲れ とコミュニケーションしすぎて気疲れしてる人もいるし。所謂クネクネ。しかし、はてなってクネクネするなとか、はてな村うぜー、けまらしい!と馴れ合いを否定される反面、はてブ怖い、モヒカン怖いみたいな馴れ合い否定怖いみたいな面もあるね。はてなにいるけどよく分からん。