サイボーグとアンドロイドの境界

サイボーグとアンドロイドの見分けがつかない理由として、先ずSFの設定としてサイボーグやアンドロイドが普遍的になったのと、次に現実世界においてサイボーグとアンドロイドの境界線が曖昧になってきている点があるでしょう。

サイボーグが普遍的なったことは、目新しさがないことの裏返しでもあります。昨今では義手や義足が発展し、サイボーグが身近な存在になりつつあります。科学技術の発展によりサイボーグが現実味を帯びたため、SFにいて主軸のガジェットとして扱いには刺激の弱いフレーバーでしょう。
サイボーグとアンドロイドの境界が曖昧になったのは、科学や倫理観の変化によるものです。究極的にサイボーグとアンドロイドを分かつ境界は人間であるか否かです。かつては「魂」が人間を規定するものでしたが、現代では「脳」であるとの考えが主流でしょう。「魂」を信じる人でも、人間の「人格」が脳に宿ることを否定はしないでしょう。しばしSFは、高度に発達した電子頭脳に「人格」が宿るか否かをテーマとして扱ってきました。実際に人間の脳を模した電子頭脳を作る動きもあります。そのような電子頭脳と人間の脳にどれだけの違いがあるでしょうか。

本エントリーでは、先ずサイボーグが目新しくなくなった理由をフィクションとノンフィクションから捉え、その後にサイボーグとアンドロイドの境界について、いくつかのフィクションを紹介しながら考えてみます。

フィクションで身近なサイボーグ

フィクションにおいてサイボーグは説明不要の設定になっています。「CYBORGじいちゃんG」や「サイボーグクロちゃん」のようにサイボーグがギャグとして成立するのは、それだけよく知られているからです。一方で、普遍的になるほど定義が吟味されず意味が広がっていきます。作中でサイボーグに関する説明がなされず、個々の解釈に委ねられます。意味の拡散は、厳密な議論をする場合には困りますが、それによって新たな創作物が生まれる側面もあります。

「サイボーグ」と呼称されない作品もあります。「鋼の錬金術師」の主人公であるエドワードは高機能な義手と義足で右腕と左足を補っています。サイボーグでありますが、作中での呼称は「オートメイル」です。SFではなくファンタジーだからでしょう。一方で、弟のアルフォンスは両義的であり、サイボーグとアンドロイドの境界にいる存在です。アルフォンスについては後でも考察しますが、彼を規定するものが「魂」であるのは興味深いですね。

サイボーグが普遍的になった結果、目新しさがなくなりました。サイボーグは後天的に能力を得る設定として用いられてきましたが、最近では遺伝子改変や注入、生物とのハイブリッドが多いように感じます。「テラフォーマーズ」は昆虫とのハイブリッドです。古くは、改造人間である仮面ライダースパイダーマンなどもハイブリッドです。「ハルク」のようなミュータントもいます。
バイオテクノロジーの他に、パワードスーツによって強くなる作品もみられます。「アイアンマン」やメタルヒーローなどがそうでしょう。ただ「アイアンマン」のパワードスーツは彼のペースメーカーでもあるので、サイボーグとも言えますが。

微妙なのが「ARMS」。彼らの手足は有機物ではありませんが、ケイ素生物との融合なのでサイボーグの範疇には入らないでしょう。寄生獣のミギーと新一の共生関係に近いでしょうか。「BLAME!」にもケイ素生物が登場しますが、かつてのサイボーグの成れの果てと考えると、彼らはある意味境界を越えた存在でしょう。

以上のようにサイボーグは当たり前の設定となり、当たり前が故にわざわざ説明がされなくなりました。一方で、強化方法としてもサイボーグはメジャーではありません。そのため、各々がサイボーグとは何かを知る機会が減ってしまいました。

現実味を帯びてきたサイボーグ

フィクションでサイボーグを知る機会は減りましたが、実生活でサイボーグは徐々に身近な存在になっています。昨今の義手や義足の発展は目覚ましく、短距離走では義足が健常者よりも早く走れるようになるかもしれない、との予測があります。

走り幅跳びでは、義足でありながら出場さえできればオリンピックの金メダルを狙える選手がいます。それが、ドイツのマルクス・レーム選手で、彼の自己ベストは8.4メートル。ロンドンオリンピックの金メダル記録を上回っているのです。*1
マルクス・レーム選手はリオ・オリンピックの出場を望みましたが、国際陸上連盟は、彼に義足が有利でないことを証明するように要請しました。マルクス・レーム選手は科学者らと協力しデータを提出しましたが、残念ながら国際陸上連盟はリオ・オリンピック出場を許可しませんでした。

NHKで、マルクス・レーム選手の検証過程がまとめられていましたが、私は有利とも不利とも結論付けられないなと感じました。恐らく科学的に結論を出すことは非常に難しく、それ故に国際陸上連盟の要請は悪魔の証明を求めるようなものかと思います。
義足であるマルクス・レーム選手の助走の速度は健常者のトップ選手と比べて遅いため、この点で義足は不利です。踏切は義足の方で行いますが、踏み切る力も健常者よりも弱いです。
マルクス・レーム選手は他の義足の選手と比較しても卓越した跳躍力を持っています。その秘密は、義足でのバランスの取り方で、彼は踏み切る際に重心を地面に対してまっすぐ垂直に調節できるのです。他の義足の選手は、その重心が斜めなっています。重心がまっすぐであるが故に、踏切を前へ飛ぶ推進力として変換できるのでしょう。
つまり、義足になれば誰でもマルクス・レーム選手のように跳べるわけではありません。類い希なるバランス感覚が必要なのです。元々、マルクス・レーム選手は水上ボードを軽々操る程の腕前で、事故で片足を失ってからも水上ボードを操れるまでになりました。これが彼のバランス感覚を養ったのでしょう。
義足が有利なのか不利なのかを考えた場合、筋力が劣るのは間違いないですが、体重が軽くなるのも事実ですし、また義足で踏切を行っているため、義足の影響を排除できません。科学者達は、有利とも不利とも判断できないとしていましたし、科学的に判断することはできないでしょう。

義足が有利か不利かを判断できない以上、私はレギュレーションの問題だと考えます。例えば、車いすテニスの世界ランク1位でリオ・パラリンピックの金メダリストであるステファン・ウデ選手は、使用している車いすが高性能すぎるとの批判があります。彼自身は車いすテニスのレベルを底上げするものだと反論していますが、器具の使用により、有利・不利が大きく作用するなら、きちんとルールを裁定すべきでしょう。

スキージャンプではしばしスキー板のレギュレーションが変更になりますし、競泳では レーザー・レーサー - Wikipedia により世界記録が相次ぎましたが、その後着用が禁止されました。

障害者スポーツでも、義手、義足、車いすなどの補助具のレギュレーションを規定すべきでしょう。しかし、現実問題としてレギュレーションを作るのは困難でしょう。競技人口も決して多くはないですし、補助具は選手毎に合わせる必要があるため、レギュレーションにより、新たな有利・不利が生まれる場合もありますし。これが、スキージャンプでスキー板のレギュレーションが良く変わる理由でしょうが。

サイボーグとアンドロイドの境界を描いた漫画作品

サイボーグとアンドロイドの区別ができない理由として、サイボーグが身近になったことを挙げました。アンドロイドもサイボーグ同様にフィクションにおいても実生活においても身近な存在です。

サイボーグとアンドロイドが身近になったのは科学技術の発展にもよるものですが、その結果この二つの境界は非常に曖昧になりました。
サイボーグは人間の身体の一部を機械に置き換えたものですが、どこまで機械に置き換えられるのか。全部を機械に置き換えたら、それは人間なのか。人間を極限まで模倣したアンドロイドと人間の違いはあるのでしょうか。

サイボーグとアンドロイドの違いは「人間」であるか否かです。つまり、「人間」を規定する科学や倫理、哲学の問題です。「人間」の既定は、多くの創作物でも題材とされてきました。「2001年宇宙」の旅におけるHALは人格を獲得しました。「ブレードランナー」におけるレプリカント遺伝子工学によって作られた人造人間で外見上は人間との区別がつきません。

そこで、サイボーグとアンドロイドの境界を扱った漫画を中心に紹介し考察します。

キカイダーハカイダー

石ノ森章太郎はサイボーグをメジャーにした漫画家でしょう。サイボーグの名を冠した「サイボーグ009」などを描いています。サイボーグ化された部位が最も多いのは009である島村ジョーで、003であるフランソワや001であるイワンはあまりサイボーグ化されていません。サイボーグをメジャーにした作品ではありますが、サイボーグを肯定的に描いてはおらず、戦争の道具として否定的な側面が強い作品です。

サイボーグとアンドロイドの境界を考える上では、「人造人間キカイダー」におけるハカイダーが興味深い題材なのですが、作品によって設定が違うため考察するにはややこしいです。
キカイダーハカイダーはほぼ同じ設計の元に作られた人造人間です。原作である漫画版のハカイダーは、光明寺博士の影響を受けたアンドロイドで、その後ギルの脳が移植されギルハカイダーとなります。意思決定をギルの脳が行うため、ギルハカイダーはギルがサイボーグ化した、と解釈できるでしょう。

テレビ版では光明寺博士の脳味噌が入っているものの、それはキカイダーが攻撃できないようにするためです。光明寺博士の脳は生きてはいるものの脳としては機能していないので、テレビ版のハカイダーもアンドロイドである。ただし、脳に影響されるような描写もあります。

サイボーグとアンドロイドの境界は、人間の脳であるか否かにあるように思えます。「ブレードランナー」のレプリカントは人生経験がないため感情移入する能力が欠如しているという設定です。経験を積めば人間との差異がほとんど無くなりそうではありますが、子どもの時期がないため、人間とは異なる「人格」を形成しそうでもあります。

ロビタは人間か

手塚治虫もサイボーグを描いてきました。特に、手塚は脳がサイボーグとアンドロイドの境界であるかを考える上で適当な作品を描いています。それは「はるかなる星」と「火の鳥」です。

「はるかなる星」は火星干拓時代のSF。干拓士は火星の過酷な環境に耐えるため脳を機械の体に入れられサイボーグ化されています。生身の体は、身体機能を維持するために電子頭脳が入れられコールドスリープのように保管されています。ところが、主人公の体が脱走してしまいます。主人公は機械の体のまま電子頭脳の入った自分の体を追いかけることに。見た目がロボットな主人公は人間として扱われず、電子頭脳の入った体の方が人間として扱われるのは滑稽ですが、境界を考える上では示唆に富みます。
マンガを楽しむ上では、人間の皮を被った電子頭脳を人間だとは考えないでしょう。しかし、現実に人間の脳が入った機械と電子頭脳の入った人間の身体が現われたら、後者の方を人間らしいと感じるのではないでしょうか。「キューティーハニー」はサイボーグと間違われることがありますが、彼女はアンドロイドです。見た目も仕草も人間っぽいので、人間と間違われやすいのでしょう。
「はるかなる星」で電子頭脳が脱走した理由が、恋人である電子頭脳に会いに行くため、であるのも奥が深いなと。恋心のような感情を持った電子頭脳と人間との境界はどこにあるのでしょうか。

人間と電子頭脳の境界に迫ったのが「火の鳥」の「復活編」です。物語は主人公であるレオナがエアカーから転落した時から始まります。アトムやブラックジャックでお馴染みの冒頭ですが、レオナの場合は脳を含めた体の半分異常が人工物に置き換えられ蘇ります。Wikipediaでは脳の大半が人工細胞に置き換えられたとありますが、私の読んだ版では人工頭脳でした。
脳を含めた体の半分以上が人工物に置き換わったレオナは人間として扱われますが、レオナ自身は後遺症として認知障害に苦しむことになります。人間を含む有機物がおぞましい無機物に、無機質なロボットや人工物が有機的に美しく見えるようになってしまったのです。つまり、レオナ自身は人間を人間として認識できなくなりました。代わりに、ロボットが人間のように見え、その結果作業用ロボットであるチヒロに恋をしてしまいます。体の半分以上が人工物に置き換わった人間は、感受性や精神構造が素の状態の人間と比較して大きく異なるのはありそうな話です。
一方で、ロボットであるチヒロもレオナに恋心を抱いてしまうのも面白いところですね。この点は「はるかなる星」と共通する点で、それだけ電子頭脳が発達していると解釈できます。

レオナは認知障害により自我の再確立に苦しみますが、最終的にはチヒロと共に臓器ブローカーに捕まり、身体をまるっとその親玉にくれてやることになります。人間の身体でいるよりもチヒロと一緒になることを望み、脳はチヒロと共に電子頭脳に置き換えられロボットへ移植されます。そのロボットこそが火の鳥の他の編でも登場するロビタです。
ロビタは初めこそレオナの人格を保持していましたが、時間が経つにつれレオナの精神は雲散し、ただかつて人間であったことを"覚えている"のみとなりました。ロビタは無骨なボディながら人間らしい仕草が受け電子頭脳がコピーされ量産されます。コピーされても人間であったことを覚えており、人間らしさは残りました。
作業用ロボットのチヒロが恋心を抱くほどに電子頭脳が発達した世界においては、人間の脳をコピーした電子頭脳が人間らしさを継続し得そうではあります。しかし、ロビタは人間なのでしょうか。物語ではロビタ自身も"人格"に葛藤することとなります。

人間と機械の境界を描いた作品においては、人間らしさは「脳」よりも「精神」もしくは「魂」から生まれるとする場合が多いように感じます。「精神」であると考えたときに、ロビタの「精神」や「魂
」はコピーできたのでしょうか。
火の鳥においては、火の鳥が輪廻の中心にあり、作中の登場人物の魂が火の鳥に回帰するシーンがしばし描かれています。ロビタにはそのような描写は無いため、「魂」はないのかもしれません。あるいは輪廻から外れた存在とも解釈できます。火の鳥は、禁忌を犯した人間を懲罰的に輪廻から外すことがありますが、ロビタの場合はどうなのでしょうか。

「魂」の生成は禁忌である

旧約聖書では、人間は土から作られ「魂」を注入された存在とされます。人間自体が「魂」を注入された泥人形なわけで、古くから「魂」が人間の根幹であると考えられてきました。

鋼の錬金術師」のアルフォンスは、エドワードにより「魂」が再生成され鎧に定着された存在です。アルフォンスが人間であるとされるのは「魂」があるからです。人間としてのアイデンティティは「魂」しかないとも言えます。それ故に、彼自身も自己の人格がエドワードによって作られたものではないかと疑い、悩むことになります。
多くの物語において「精神」や「魂」のコピーや生成が描かれてきました。多くは禁忌であり、成功した事例は殆どありません。ただし、主人公が奇跡的な成功に見舞われるのはお約束ではありますが。

「魂」のコピーとサイボーグを扱ったマンガとして「攻殻機動隊」があります。「攻殻機動隊」において、サイボーグは高度に発達しおり、人間をほぼ機械に置き換えることが可能です。主人公である草薙素子はほぼ機械化されています。人間と機械の境界が非常に曖昧ではありますが、人間であるか否かは「ゴースト」の有無として扱われています。それ故に「ゴースト」へのハックやコピーは重犯罪とされています。これは裏を返せばコピーもハックも可能ということです。「ゴースト」のコピーは「ダビング」と称されていましたが負荷が強く「ダビング」された本人は亡くなってしまいます。「ダビング」した「ゴースト」を利用したAIは人間らしい振る舞いをするのだとか。

「ゴースト」へのハックは人形使いの得意とすることで、「攻殻機動隊」は草薙素子らが彼(?)を追う物語です。人形使いは非常に高度に発達した人工知能です。人間に近しい存在ではありますが、人形使い自身は揺らぎを持つ生殖機能がないことから、自身を不完全な生物であると考えています。揺らぎの無さは環境の変化への適応力が無く不利だと考えているようです。揺らぎを得るために素子と接触し、最終的に二人は融合するわけですが、融合の素子はサイボーグとアンドロイドの境界そのものでしょう。

作中のAIを搭載した戦車であるフチコマ(TVアニメ版はタチコマ)も人間と機械の境界にある存在として示唆されています。作中では、素子と人形使いが到達した、ある種の悟り近い領域へ、彼らよりも先んじて入り込んでいます。フチコマは全てが同一個体である点はロビタに近い存在かと思われます。

「魂」の「器」

物語では「器」に「精神」や「魂」が宿れば人間、あるいはそれに近い存在として描かれてきました。「ピノキオ」などが典型ですが、一般的には人間になることがハッピーエンドとされます。
「ピノキオ」の「器」は人形ですが、この「器」は人間そのものでも良いはずです。

フランケンシュタイン」は人間の死体から造られており「器」の材料は人間です。フランケンシュタインには心が宿っていますが、人間そのものとしては描かれていません。「屍者の帝国」に登場する屍者も人間の死体から製造されますが、死んだ脳にプログラムを書き込まれたロボットのような存在です。もちろん、物語の特異点としてザ・ワンのような例も存在はしますが。

銃夢」では「器」の対比が描かれています。主人公であるガリィは脳以外の殆どがサイボーグ化されています。彼女を助けたのは、ザレム人であるイドですが、ザレム人には大きな秘密がありました。16歳になると脳がチップに置き換えられるのです。16歳未満のザレム人は普通の「人間」ですが、16歳以上になると「人間」の皮を被ったチップとも言えます。
イドの精神はそのことに耐えられませんでしたが、同じくザレム人であるノヴァ博士は自身の脳がチップであることを受入れています。ノヴァ博士は規格外な狂人的な天才といえるでしょう。
脳以外は機械のガリィと、脳が機械でそれ以外は人間のイドをはじめとするザレム人の対比。人格や精神を完全にコピーでき機械上でトレースできる場合、それは「人間」なのでしょうか、「機械」なのでしょうか。イドはその点に悩むことになりますが。ノヴァ博士は脳がチップであっても自分自身が自分であることには変わりが無いと考えているようです。
ザレム人はまさに境界の存在ですが、先ずは自己認識の問題であり、その後に社会が「人間」をどのように規定するのか、という問題でしょう。「銃夢」においては、ザレム人の秘密は殆ど知られていないため、ザレム人は人間として扱われいます。見た目がサイボーグのガリィよりも、人間として扱われています。現実世界でも「器」の人間らしさは「人間」として認識されるか否かのポイントとなるでしょう。

フィクションにおいても「器」の人間らしさは重要で、人格や精神をコピーできても「器」が人間でない場合は、しばし人間でないものへの変容として描かれています。マンガで適当な例が思いつかないですが、「メタルマックス」に登場するバイアス・ブラドは意識や感情を電子頭脳へ完全にコピーすることができましたが、その後は人間とはかけ離れた感情や思考を有するようになっていきます。「ルパンVS複製人間」におけるマモーの本体も、脳の肥大化により人間とはかけ離れた存在に変容したと解釈できるでしょう。「PLUTO」に登場するロボットは、人間らしい姿のロボットは人間に近い存在として描かれますが、トラキア合衆国のAIのように計算機は人間と似て非なるものとして描かれる傾向にあります。

コピーの継承と「魂」

サイボーグとアンドロイドの見分けがつかないのは、その境界が曖昧になってきているため仕方がないのかなと。両者の極限を想定すると判別の付かない境界へと迷い込んでしまいます。しかし、どちらから寄せるかでその極限は異なってきます。

サイボーグから寄せた場合、人格や精神を完璧にトレースできる電子頭脳は「人間」なのかが境界になるでしょう。自己認識の問題でもあり、社会的にどのように受入れられるかという問題でもあります。究極的にはある人格のコピーを、その本人として受入れるか否かです。
スタートレック」などに登場する転送装置は、量子レベルまで分解し再構成することでワープすることができます。転送後は転送前のコピーであるとも考えられます。この時、転送前と転送後の「人間」は同一なのでしょうか。通常は、その点は特に疑問視されません。ただし、二人複製されたり、融合したりと転送事故が起こり、転送された人間のアイデンティティクライシスが起こるのがお約束です。

コピーの場合、コピー元が削除されコピー先のみが常に一体だけ存在するならば、アイデンティティがコピー先へ継続されるた感じられるでしょう。先の転送装置が通常は問題視されないのも、その理屈によります。しかし、コピー元とコピー先の両者が共存する場合、コピー元こそがオリジナルと感じられるでしょう。これは、完璧に人間の脳をトレースできる電子頭脳の場合も、似たような傾向になるでしょう。つまり、コピーの際にコピー元が無くなる場合は、コピー先はオリジナルを継承した「人間」として扱われやすくなります。この継承は「魂」が乗り移ったのと同じ作用として働きます。「鋼の錬金術師」におけるアルフォンスなどがそうですね。

オリジナルとなるコピー元が無くならない場合におけるコピー先の取り扱いはマチマチで「人間」として認められることもあれば、そうでない場合もあります。特に問題が無ければ突然現われた双子として処理されるのが平和的な解決ですが、しばし悪さをしたり、欠陥によりその存在を継続できなくなったりするのが、やはり物語のお約束ですが。この時は、人間では無いものへの変容として描かれ、境界を越えてアンドロイドやロボットの側へと押しやられてしまいます。

「魂」のないアンドロイド

アンドロイドから寄せた場合は人間として認められ難いです。せいぜい人間と同等の存在とされるだけでしょうか。つまり境界を越えることはありません。「鉄腕アトム」ではロボットにも権利が認められていますが、人間にとっては良きパートナーであり、人間と同等の存在ではありません。
究極的に考えると「魂」がないからでしょう。あるいは、ロボットやアンドロイドは人間とは異なるあり方の「魂」あるいは「精神」を有するのかも知れません。

科学技術の発展により、サイボーグとアンドロイドの境界が曖昧になってきました。しかし、現時点ではサイボーグがアンドロイドの方へ境界を越えることはあっても逆はほぼありえません。ここが、サイボーグとアンドロイドの大きく異なる点なのでしょう。仮にアンドロイドが人間性を獲得できても、人間とは認められるのは非常に困難です。そこには「魂」としか呼びようのない概念があるように感じられます。

*1:走り幅跳びの世界記録は8.9メートル