読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

最近 無言主人公とプレイヤーの距離がおかしい

以下、ゼルダの伝説トワイライトプリンセスDQ8、大神、世界樹の迷宮、魔界塔士サガに関して言及しています。

これまでのゼルダDQは、主人公がしゃべらないことで主人公=プレイヤーという関係が保たれていた。逆に、FFにように主人公達が好き勝手にしゃべる場合は、没入度は下がるのだけどドラマを見せる場合は効果的である。この場合、映画や小説的で、主人公に感情移入してプレイする人もいれば、観客として客観的にプレイする人もいる。

トワイライトプリンセスDQ8の違和感

今回のゼルダの伝説であるトワイライトプリンセス(以下トワプリ)では、リンクはしゃべらないものの要所要所でリンク自身の内面の表情が顔に出るし、実際言葉を交わしたようなシーンも見られる。さらに、昨今のムービーゲームの様にリンクとしてドラマを演じる。そこにプレイヤーの意思は無い。製作側は無言のリンクを通すべきと考えたのだろうが、リンクがリンクを演じてしまっているので、むしろしゃべった方が良かったのではないかとすら思えるが、それも中途半端か。なせならば、無言であるにはリンクがドラマを演じすぎており、しゃべるにはドラマが足りないから。本来、無言主人公=プレイヤーとの一体感のはずなのに、中途に演じてしまっている分、乖離が生じている。
この乖離は、グラフィック能力の向上により無表情では不自然と製作側が解釈したからか。つまり、グラフィックの向上により、プレイヤーが想像を膨らませるのりしろを減らしてしまった結果となっているのは、昨今のムービーゲームと同じ道を辿っているのかもしれない。
これは、DQ8も同様か。DQ8の主人公もこれまでのDQの主人公達を踏襲し無言なのだけど、これまでのドラクエに比べドラマを演じてしまっている。それ故に、なんかおかしい。特に私はあのEDに未だに納得できないでいいる。あのEDの結果はDQ8の主人公自身の意思による結果だ。つまり、DQ8の主人公には固有の意思があり、私がその意思と一体になれなかったから、納得できないのだろう。
例えば、DQ5の結婚イベントなんて本来はプレイヤーの意思とは全く関係ないにもかかわらず、「俺はフローラ」、「私はビアンカ」などと普通に派閥ができ誰も違和感を覚えていない。これは、ストーリー回しもさることながら、ビアンカとフローラという限られた選択肢があるのも一因だろうか。それこそ、DQ1竜王のセリフ「せかいの はんぶんを おまえ に やろう」→「はい、いいえ」のように。

大神とトワプリ

さて、PS2ゼルダ的ゲームである大神も無言主人公だ。アマテラスは犬だからしゃべれないのは当然だし、作中でも何を考えいるか分からない顔と評されている。この大神と今回のゼルダの伝説であるトワプリは結構似ている。トワプリはリンクとミドナで冒険を行い、大神はアマテラスとイッスンで冒険が進む。ミドナとイッスンは、次へ進むべき、あるいはダンジョンでのヒントだったり、物語の解説、NPCと主人公の意思疎通を担っている。ただ、両者の決定的な違いは本来リンクはしゃべれるのに対してアマテラスは犬だからしゃべれないと言う点にある。故に、アマテラスがしゃべらない事に対して違和感は全く感じないが、リンクが始終無言なのはおかしい。特に、今回のトワプリようにリンク固有の意志があるような場合は。そもそも、大神においてアマテラスが無言でも違和感がないのは、製作側が犬であると認識しているからだろう。
ただ、大神の場合はプレイヤーが犬になりきるってのは難しい。犬のアクションと自身のアクションの一体感が無い。それ故Wiiトワプリのアクションはプレイヤーと一体に慣れるが故に、ストーリー面において乖離が起こっているのは惜しいと思う。まぁトワプリも狼になるのだけど、大神と違うは、人間から狼になるという点で、人間から狼になった場合、狼の動きに四苦八苦するリンクと、同様にアクションと四苦八苦するプレイヤーとの一体感があると思う。大神も始めは能力が封じられており、徐々にそれが開放され、アマテラスとプレイヤーとが一緒に成長するのだが、やはり犬を操作していると言う感覚を完全には拭いえていないと思う。

世界樹の迷宮と魔界塔士サガ

世界樹の迷宮も面白かったが、途中からプレイヤーの意思と乖離が起こっているような気がする。世界樹の迷宮も無言主人公であることで、プレイヤーとの一体感を狙っている。しかし、ネタバレなので詳細は触れないが、無言主人公なwiz的ゲームと思わせといて、最終的には物語が勝手に進んしまっている。
先に進まないことにはゲームはクリアできず、それ自体はプレイヤーの意思なのだが、ゲーム内に介在する物語への意思決定が、プレイヤーの意思と直結していない。主人公がしゃべらないもんだから、彼らが何を思って先に進むのか分からず、かと言ってプレイヤーの意思が物語に尊重されているようには思えない。少なくとも、私はそう感じた。それならば、世界樹の迷宮と似たゲームで、キャラクターを勝手に登録でき、上る下るの違いはあるが先へ突き進み真実を知ることが目的の魔界塔士サガのように、要所要所で勝手にキャラクターがセリフをしゃべる仕様にしたほうが良かったように思える。サガの場合はストーリーの回し方により、主人公達とプレイヤーたちの意思が比較的一致し易いように作られているのだろうが。さらに、世界樹の迷宮では物語が急に進展し、不連続面が生じるのも問題か。これまで、ゆったりと進んでいたのにあるときに達すると物語が急転する。それ故、私は物語についていく前に置いてけぼりにされた気がする。ただ、それだけ重大な秘密への驚きは大きいのだけど。それだけに残念かも。
それとも世界樹の迷宮に関しては何かを知るには大きな代償があると言う教訓めいた話なんだろうか。

まとめ

トワプリDQ8の主人公は無言なので、勝手にしゃべるゲームよりも没入度は高いが、ドラマを勝手に演じるため、これまでの無言主人公RPGよりも没入度は下がっている。ドラマを演じているものの、始終無言なのでドラマとしては中途半端で、勝手にしゃべらせると違和感が残る。つまり、無言であることが効果的に働いていない。特に、Wii版のトワプリではアクション面においてリンクとプレイヤーとの一体感が高いが故に、この中途半端に無言であることでストーリー面でのリンクと乖離は勿体無い。
これらの違和感は、グラフィック能の向上によるプレイヤーの想像ののりしろ部分が減ったからというよりも、結局は物語の進め方にあるのだろう。大神は犬だから違和感ないし、世界樹の迷宮はグラフィックなどのムービーが無いにも拘らず乖離している。『物言わぬ主人公のお話。 RPG考察モドキ』で指摘されているように、トワプリも演出次第では無言でも違和感は無かった。そして、リンクに演じさせたいならセリフがあっても良いんじゃないかとも思えるが。