ゲームはできることが制限されてるからこそ面白いのですよ

自由度と制限

何でもできるという触れ込みであったDQをプレイした小林よしのりが、何もできないじゃないか!と切れて投げ出したという話があります。当時としては、自由にフィールドを歩き回ることができ、人に話しかけたり調べたりとかなり自由度の高いゲームですが、流石に村人を殺したり、道筋を無視して進むほどの自由度は無い。それはゲームのルールであって、それに則りプレイしなくちゃいけないからではなくて、ある程度制限を設けないとプレイヤーが投げ出してしまうから。例えばDQシリーズは船を手に入れるとどこへでもいけますが、逆に次に何をしていいのか分からなくなる。だからたけしの挑戦状クソゲーなのですよ。
自由度が増すと、プレイヤーが何をして良いのか分からない。逆に、あまりに制限しすぎると単に作業になってしまい楽しめなくなる。良いゲームはこの自由度と制限が絶妙なバランスをとり、プレイヤーの好き勝手にやらせているように見せて、適度に導いているのだろう。
ゲームの話じゃないけども、「人は選ぶものが多くなると選ばなくなるというのが昔からの俺の自論だ」ってことなんだと思いますよ。

システム的な制限ではなく、強制的に進行を制限するゲーム

以上は、ゲームのシステム的な制限で、RPGならレベルやフラグなどによりフィールドやストーリーの進行を制限しプレイヤーを導く。アクションゲームなら、昔なら強制スクロールで進行させたり、またゲーム内でできることが制限されているからこそ、様々なことにチャレンジしようとし、結果最速クリアなどの神プレイが生まれる。各ゲーも、必殺技はコマンド入力しなければならず、超必殺技はある限定された条件で無いと出せず、そこに駆け引きが生まれる。パズルは言わずもなが。
最近、目に付くのは発熱地帯: プレイに制限をかけるゲームが増えているで、紹介されているように強制的に進行を制限するタイプ。例えば脳トレなら、一日何時間やっても新しいトレーニングは増えないし、脳年齢も一日一回しかプレイできない。つまり、プレイ回数を制限することで、何日も続けないといけないゲームになる。
また、ひぐらしならば、出題編と解答編を分けることで、プレイヤーが進行するストーリーを強制的に止める。解答編まで時間があるので、強制的に推理をさせる仕組みになっている。
どちらも、近年のテレビゲームに見られる制限ではなくて、"遊び"の制限に近いと思う。謎解き遊びを、ゲームでしかもプレイヤーに強制させた(強制させるストーリーだった)からこそひぐらしは話題になったのだろう。

ゲームは単純作業の積み重ね

さて、島国大和のド畜生 次世代くん:577 RPG嫌いにて、RPGがつまらない、つまらなくなった理由が述べられている。

  1. RPG=誰でもクリアできる
  2. 誰でもクリアできる=単純作業
  3. 単純作業=つまらない

という三段論法なんだけど、確かにそう。ただし、世の中には妙に単純作業が好きな人や、あるいはやけに楽しい単純作業なんてのもある。前者はゲーマーなんだけど、後者こそがゲームが楽しい重要なポイントなんじゃないかと思う。テトリスなんて、落ちてくるブロックを並べて消すという単純作業なのに、ある種の爽快感があり、だからこそ今でもプレイされているのだろう。また、先の脳トレこそ単純作業の繰り返しなのに、脳年齢を上げるために、みんな必死こいて単純作業を繰り返している。そして、その単純作業をさせる動機となるのが、褒美なのだろう。パズルなら解けた爽快感であり、脳トレなら脳年齢が上がることが褒美に繋がる。

まとめ

ゲームってのは、昔から言われてるけど、突き詰めれば、ある制限された自由のなかで単純作業を繰り返し、褒美を貰うことの繰り返し。自由が制限されているのは、あまりに自由だと何をして良いのか分からないから。ゲームに限らず、何事も単純作業の繰り返しだけど、娯楽なのだから褒美が必要。単純作業自体が楽しい場合もあれば、褒美が魅力的な場合もある。これら全てが絶妙なバランスを保ったのが良ゲーなのだろう。
言うは易し、行うは難し
つまるところ、SじゃなくてMの理屈です。何より、制限されている中で如何に楽しむかが重要なのだと思うなぁ。コメントでも言及したけど、自分でプレイに制限を課したりね。