例の増田は「そば湯」を知らないのか

そばの茹で汁を平気で飲む彼氏

育ってきた環境の違いなのか、そばの茹で汁を飲む人をはじめてみた。
そば湯だからと言うのだけど、茹で汁ごときを健康に良いといって平然と飲む姿を受け入れられそうにない。

便宜上、増田を彼女、ゆで汁を飲んだ方を彼氏とするが、ほとんどの人は彼女が「そば湯」を知らない前提の感想である。しかし、それだと文章や状況がおかしくないですか?
たった二行の文章で情報が十分ではなく、その点は増田たる彼女の文章構成の問題ではあるのだが、彼女が「そば湯」を知らないと解釈するのには違和感がある、
私は蕎麦屋などではなく、例えば家などで自前でそばを茹でて、彼氏はそのゆで汁を飲んだと解釈した。


蕎麦屋にいる場合、店員が湯桶などに入った「そば湯」を持ってきたはずで、その状況で彼女が「そばの茹で汁を飲む人をはじめてみた。」って感想を持つのは不自然だ。他の客にもそば湯が出ているだろうし、飲んでいるに違いない。彼氏も指摘しただろう。もちろん、店が閑散としていたり、彼氏が「そば湯」を催促した可能性もあるが、湯桶に入ってる「そば湯」を、「そばのゆで汁」と表現し拒否感を示すのも疑問だ。店員に聞くなりの選択肢もあるだろう。

彼女が「そばのゆで汁」と「そば湯」を使い分けている点も気になる。「そば湯」を知らなくて、彼氏や店員に「そば湯」なのだと知らされた場合、先ず「そば湯」なるものに疑問を呈するのではなかろうか。二行目の「そば湯だから」には、彼女がそば湯は飲むものであること了解しているように思われる。
以上のように考えると、蕎麦屋などに行き、そば湯を飲む状況ではなく、自宅などでそばを茹でて、彼氏はその茹で汁を「そば湯だから」と言って飲んでいるのではないかと。それは流石に、彼女が受入れられないと感じてもおかしくはないだろう。ただし、焼きそば弁当や焼きそばBAGOOONなどはその限りではない。