エンディングを通すことで主人公とプレイヤが一体となるドラクエ9

はじめに

ドラクエ9は主人公の姿を自分でカスタマイズできるのに、物語上では天使だったり、無口だったりで微妙にプレイヤと乖離しているように感じられた。しかし、クリアしてみると主人公が自分の分身であると感じられるようになってきた。これまでのドラクエはクリア後に主人公たちが自身の物語を歩みだすため、ゲームをクリアしてしまうとプレイヤは主人公から引き離される。一方、ドラクエ9は一旦クリアすることで主人公が本当の意味でのプレイヤの分身となる。これはゲームのクリア後こそにゲームとしての楽しみが詰まっている、むしろクリア後こそがゲーム本編とも言える作りであるからこそのゲーム構造上のからくりなのではないだろうか。

主人公の瞳に映るものは

ドラクエ9は主人公の見た目を自由に選択することできる。装備も自由に変えることができ、アバター的要素がある。防御力は低いけど、見た目が好きだからニーソックスを選ぶぜ!と、見た目に拘ることは可能である。これは、製作者側が主人公をプレイヤの分身であるとデザインしているからであろう。元々ドラクエはFFと比較されるように無口な主人公を貫き通し、一貫して主人公=プレイヤを意識させるゲームである。
しかし、ゲーム開始時におけるドラクエ9の主人公とプレイヤには微妙な距離があり、乖離が感じられる。主人公とプレイヤが乖離する理由は主人公が天使だから。これは後述する。もう一つの理由は、主人公が無口だから。本来、主人公が無口であることはプレイヤとの距離を縮めるための仕掛けであった。しかし、昨今のRPGにおけるストーリーの複雑化とグラフィック能力の向上により、無口な主人公は必ずしもプレイヤとの距離を縮めるものではなくなっている。

昨今のRPGではストーリーが複雑化したため、一人旅の場合、無口な主人公だけでは話を進めることが難しくなっている。そこで登場するのがナビゲーターである。たとえば、トワイライトプリンセスミドナであり、大神におけるイッスンである。彼らはゲームを進める上でのヒントを指し示すナビゲーターでもあり、ストーリーを語る狂言回しでもある。ドラクエ9には仲間はいるが、ルイーダの酒場で組むことのできるパーティーはストーリーに関与しない。それ故にガングロ天使こと、サンディがナビゲーターを務めている。とは言うものの、サンディは人間には見えないので、死人、天使関連イベントは主人公のみで話をこなさなくてはならない。しかしながら、主人公は一貫して無口である。また、ドラクエ9のキャラクターは昨今のゲームに比べればリアルではないけれども、昔のゲームに比べれば十分にリアルである。そのリアルなキャラクターがストーリー上で何も話さないと言うのはずいぶんと変な感じである。また、ストーリーの演習において主人公の顔や瞳が映し出されるが、その瞳から考えを読み取ることはできない。もちろん、自分の思いを投影すればよいのだが思いを乗せるのはキャラクターが立ちすぎている。これは恐らく、自分そのものの顔が画面に映し出されたとしても、それを自分自身だとは思えないことにもう由来するであろう。
ストーリー上では現在のようにキャラクターを認識できるグラフィックなのに無口な主人公だと、中途半端に自分自身だとは思えない。しかし、クエストやダンジョン探索などの冒険をする上では無口であったほうが自分自身だと思える。無口主人公とプレイヤの乖離は冒険がメインであるはずが、ゲームを進行させるためにストーリーが必要となってくるための齟齬のためだろうか。
ところで、サンディはギャル語でガングロで毛嫌いされるいるが、本作のストーリーはヴァルキリープロファイル並みに人死にに死人ばかりなので、彼女くらい強烈に明るいキャラクターがいなければ本当に陰鬱としたものになるだろう。

天使の理という鎖

ドラクエ9の主人公を自分の分身だと思えない理由の一つは少しだけ触れたが、天使だからでもある。折角自分好みにカスタマイズした主人公なのに、ゲームを始めると天使の羽が生えているし、人間にはない能力を持っている。また、天使の服以外に装備の代えもないのでおしゃれをすることもできない。ドラクエは素性の知れない主人公とプレイヤを同化させることで始まるゲームである。ドラクエ3などまさにそうであろう。しかし、ドラクエ9はそうではなくゲーム開始直後は主人公とプレイヤが微妙に乖離している。これはなぜだろうか。
主人公は天使であり、世界樹に女神の果実を実らせるのが役割である。女神の果実を実らせることで、天使たちは神の国へ帰ることができる。故に、女神の果実を実らせるのは天使にとって至上命題である。天使たちの働きにより女神の果実が実るが、何者かにより天使界が攻撃され女神の果実は地上へと散ってしまう。その際に主人公も地上へと落ち、天使の羽とその能力の一部を失い見た目上人間となってしまう。また、天使の服以外の装備を手に入れられるようになり、装備上の見た目も変えることができるようになる。天使の羽根を失ったことで主人公はプレイヤに近づいたといえるだろう。しかし、見た目が人間に近づいたからといって完全に天使の理から外れたわけではない。
主人公はサンディと出会い天使界へと戻り、地上へと散った女神の果実を集める旅をすることとなる。その後幾多の苦難を乗り越え女神の果実を集めた主人公であったが、突如現れたかつての師であるイザヤールに女神の果実を奪われてしまう。抵抗するにも上級天使の命令は絶対という天使の理のため歯向かうことすらできない。プレイヤとしてはイザヤールを倒したいのに、天使の理のため何もすることができない。これと全く同じ構図が女神の果実をバラバラにし、すべての元凶である堕天使エルギオスとの戦いの際にも起こる。エルギオスは主人公の師であるイザヤールの師である。上級天使に逆らうことができないという天使の理のためプレイヤは自らの意志を実現できない。
天使の理という鎖を断ち切らなければラスボスであるエルギオスを倒すことができない。天使の理を断ち切ることでプレイヤは自らの意志を実現できる。天使の理を断ち切るためには、天使である事を止める、つまり人間にならなければならない。人間になるかならないか、クリアするためには実質一択しかない「はい、いいえ」ではあるものの、その選択は間違いなくプレイヤの意志と一致する。不自由な選択肢ではあるが、その選択はプレイヤの意志である。そしてその選択を経ることで主人公は、初めてプレイヤと同じ立場=人間となる。つまり、主人公がさらにプレイヤに近づいたことになる。
ラスボスを倒すまでは過渡期であり、主人公は徐々に人間になっていく。ラスボスを倒した暁には完全に人間となりこれまで旅を共にしたサンディも見えなくなってしまう。主人公が人間になることで、プレイヤは主人公を通すことでしか見ることのできないはずの、天使、魂、神が見えなくなる。ラスボス直前の人間になる選択から、エンディングを通すことでプレイヤは主人公と一体になるのだ。

旧作とは逆の構造を持つドラクエ

これまでのドラクエはプレイ開始時に主人公をプレイヤの分身であると強烈に植えつけ、冒険中も無口を通して主人公をプレイや自身として感じさせてきた。そして、ゲーム中では主人公とプレイヤを徹底的にイコールで結び付ける作りであるが、エンディング後は主人公がプレイヤの意思とは関係のない主人公自らの意思で物語を紡ぎだし、プレイヤと主人公を乖離させる構造となっている。しかし、ドラクエ9はプレイ開始時に主人公とプレイヤとの若干の乖離がある。その微妙な距離は、ゲームを進めるにつれ、装備が増え、転職できるようにななり自分流にカスタマイズできるようになり、また主人公と同じ体験をすることで狭まっていく。そして自らの意思で人間になるというエンディングを経て完全に一体となるという、全くの逆の構造である。これは何故だろうか。
それは、ドラクエ9におけるクリアは通過点に過ぎないからだ。クリア後にレベルを上げたり、クエストをこなしたり、最強武具を錬金したり、宝の地図を探索したりと数多くの楽しみが用意されている。ドラクエ9はクリア後こそが本編と言えるだろう。通信協力プレイも、むしろクリア後のほうが楽しいのではないか。クリア後に飽きるまで楽しむのがドラクエ9の楽しみ方であろう。故にプレイヤと主人公がエンディングで乖離してしまっては元も子もない。エンディングで主人公がプレイヤから離れていったのに、クリア後のお楽しみがあっても白けるし、乗り気がしない。ドラクエ9はクリア後を楽しむ、クリア後こそがある意味本編なのだから、エンディングを通してこそ、そしてエンディングを迎えられたプレイヤほど、主人公に強い思い入れを生じさせるような作りにしたのかもしれない。
さて、エンディング後にあるクエストをこなすと主人公は天使に戻るという選択を迫られる。天使に戻るので主人公が人間ではなくなり、プレイヤから乖離するようにも見えるがそうではない。天使になることを選択したのはプレイヤである。ゲーム開始に時には主人公は天使として生れ落ちたのであって、それはプレイヤの選択肢ではない。クリア後にはプレイヤの選択により主人公は天使に戻る。つまり、主人公を通してプレイヤも天使の仲間入りを果たしたと考えても良いのではないだろうか。そして、自らの意思で天使に戻ることで本当の意味での人間界の守り人になったとい言えるのではないだろうか。

さいごに

昨今はモンハンやMMORPGをはじめとして、長く遊べる作業ゲーが流行である。そのようなゲームにおいては、長くプレイすればするほどキャラクターに愛着が沸くし、長く遊ぶほど装備などを自分流にカスタマイズすることができる。ストーリーで牽引してきたRPGにおいては、はじまりで主人公とプレイヤを一致させ、クリア後にその関係を乖離させるという手法が殆どであった。しかし、その構造ではクリア後も長々と遊ぼうとは思えない。精々おまけダンジョンをクリアするくらいのモチベーションである。何しろゲームは終わっているのだから。ならば、転生して「つよくてニューゲーム」かといえば、今度はストーリーが邪魔になってしまう。その一つの解決策が、ストーリーでエンディングまで牽引しつつも、エンディングの世界こそが真の意味での冒険が待ち構えるているドラクエ9なのではなかろうか。エンディング後が本当の冒険だからこそ、エンディング後に主人公とプレイヤが乖離せず、逆にエンディングを通してこそ主人公とプレイヤの一体感を高める作りになっているのではないだろうか。
さて、ドラクエ9のエンディングでは”To be continued”と記された。これはクリア後も冒険が終わらないことを意味しているのだろう。もしかしたら、本当のエンディングが今後のクエスト配信で用意されているのかもしれない。ドラクエ9の今後の期待したい。