漫画のダイナミクス 漫画をめくる冒険を紹介するよ!

ピアノ・ファイア泉信行さん(id:izumino)が手がけた「漫画をめくる冒険」を紹介するよ!前月の文学フリマでの発表だったのに今更な感じな上に、僕らしい本論に入るまが長い紹介記事ですけども。

電子書籍が普及するために、電子ブックリーダーの普及など必要ない

本題に入る前に電子書籍の普及について言及した記事を紹介したい。

紙の本が100%なくなるとは考えにくい。電子データとして残すよりも紙の本の方が耐久年数は長い。まぁ耐久年数を稼ぎたいなら石版にでも彫ればいいのですが。ただ、紙の本が100%なくならないとして、それこそSFのように紙の本が貴重品になるなんて事態はありえでしょう。一般人の周りから紙の本が限りなく100%に近い形で無くなることは十分にありえるのではないでしょうか。
さて、先のエントリでは、紙の本がなくなるには2つの越えなければならない壁があると説明しています。一つは電子書籍の普及。これに関しては至極当然。日本では利権関係上厳しいとの見方もありますが、紙の本で儲けられなくなったら割りとすぐに移行しちゃうんじゃないでしょうか。もう一つは、電子ブックリーダーなどのハードの普及。しかし、これに関しては大いに疑問です。「紙の本がなくなるには電子ブックリーダーが普及しなければならない」という考えそのものが紙の本に囚われた考え方です。電子書籍、つまりデータ化された本を読むために電子ブックリーダーを使う必要はありません。電子書籍を読むのにハードにこだわる必要は全くないのです。自分の好きな形態で読めばいいのです。今流行のネットブックで読んでもいいですし、携帯ゲーム機、あるいは携帯電話やiPhoneでも良い。それこそ、自分で製本したって良いんじゃないでしょうか?
それでは実際に紙の本が減り始めるのはいつごろでしょうか。やはり、先進国の方が早くに紙の本がなくなってしまうのでしょうか。いやいや、開発途上国の方が早くに電子書籍が普及するなんてこともありえるかもしれません。
2000年に中国で行われた国際会議に参加したのですが、その際に日欧米の発表者のほとんどはOHPを使用し、液晶プロジェクタで発表した人は少数でした。一方、アジア、特に中国の発表者のほとんどは液晶プロジェクタでした。液晶プロジェクタを使用した方が綺麗ですし、動画も使用できます。さらに、発表時間ギリギリまで修正が可能です。にも拘らず、日欧米人はOHPを選択した。それはなぜでしょう。2000年当時、私の所属していた学会周辺はOHPから液晶プロジェクタへの以降の時期でした。学会の主催側が液晶プロジェクタを用意できなかったり、あるいは発表者がノートPCやソフトを準備できなかったり。また、液晶プロジェクタで発表するにもノウハウが蓄積されておらず、会場に分配器などは用意されず、さらに発表者も液晶プロジェクタへの映し方を熟知していなかったため、液晶プロジェクタで発表するにも手間取ることが多い時期でした、欧米の状況は分かりませんが、日本と似たり寄ったりだったのでしょう。日欧米においては液晶プロジェクタへの以降時期であったため、使い慣れた、そして国際会議で確実に発表できるOHPを選択した発表者が多かったのではないでしょうか。液晶プロジェクタを選択した発表者でも万が一のためにOHPを用意していたたようです。一方で、中国では液晶プロジェクタで発表するのが当たり前だったのでしょう。発表できさえすればOHPよりも液晶プロジェクタの方が便利です。確実に発表できるなら綺麗でわざわざOHPにコピーする手間も省けて便利な液晶プロジェクタを使用するでしょう。もちろん、持ち運びに便利なノートPCが少なかったなどの理由もあるでしょうが。
OHPと液晶プロジェクタのように既存の技術よりも優れた技術があったとしても、人は慣れ親しんだ技術をしばらく使いだがる傾向にあります。まさに、紙の本と電子書籍のように。また、既存の技術を知らない人たちの方が新しい技術を率先して使うでしょう。大人よりも子供の方が新しい家電の使い方を覚えます。同様に、先進国よりも開発途上国のほうが新しい技術に慣れ親しみやすい傾向にあるのではないでしょうか。
電子書籍に関しても、先進国よりも開発途上国、特に中国やインドなどの今まさに発展している国ほど普及し易いかもしれません。本は本というメディアだけで読むことができる利点があります。しかし、情報が命である現代においてできるだけ多くの情報に触れたい。その点において本は決して有利なメディアであるとはいえません。特に本の最大の欠点は重く、場所をとること。情報に関しては流通を発展させるよりも、通信を発展させた方がコスト的にも安い。開発途上国ほど、情報のインフラのほうが早く進む可能性があるでしょう。また、OLPC俗に100ドルPCと呼ばれるに開発途上国の子供たちのためのPCが販売されています。PCで育った子供たちにしてみれば、情報の入れ物は何でも良いでしょう。紙の本であることには拘らないのではないでしょうか。紙の本がすでに普及している国々では、紙の本の良さを知っているから、紙の本が根強く残るでしょう。しかし、先に情報だけを知った国々、あるいは世代にしてみれば紙の本である必要はまったく無いでしょう。紙の本を模した電子ブックリーダーである必要も無いでしょう。

紙の本であることが書籍を決定付ける

電子書籍は普及するでしょうが、利権などに関わらず電子書籍に移行するのは簡単なことではないかもしれません。読者も読みなれた紙の本という形態にこだわると同時に、作家も紙の本にこだわるかもしれません。
現在のほとんどの作家は紙の本になることを意識して本を書いています。ページをまたぐ際に文章をどのようにつなげるかなど。また、京極夏彦のように書籍の形態が変わる度に書き直す作家もいます。漫画家ならば、あずまきよひこなどは雑誌連載時には間に合わなかった絵や構図にコマ割を書き直しますね。京極夏彦は特殊な例で、彼は自身で印刷前までのレイアウトまで作製するそうです。その変態っぷりは同じ一冊の本なのに、それぞれの短編ごとにレイアウトが異なった南極(人)を見てみれば分かると思います。作家もプロですから、電子書籍が普及すれば電子書籍にあった書き方をするでしょう。メディアによって書かれ方が変わってくるのも当然のことです。例えばウェブ上で小説を発表する場合、レイアウトが崩れるのでPDFなどでガチガチに固めて発表したい作家もいるでしょうし、テキストデータだけのようにフレキシブルな読まれ方をされることを見越して書く作家もいるのではないでしょうか。
また、メディアの形によっても生まれる作品の形も変わってきます。たとえば、電車男をはじめとする2ちゃんねるまとめ。あるいはケータイ小説電車男などは2ちぇんねる掲示板だからこそ可能で、そして掲示板にしか出来ない表現です。参加者とのやり取りもそうですが、AAなども文字だけで絵を表現するという制約の中で生まれた手法です。また、ケータイ小説も少ない文字数で表現するため、それこそ あたし彼女 のような作品もあれば、友達のメールを読む感覚に近いと言われる、恋空 など独自の表現が存在します。電車男にしてもケータイ小説にしても書籍化されています。電車男などは掲示板のレイアウトをそのまま紙に転写しています。しかし、レイアウトは同じでも転写したものはコピーに過ぎません。同時にケータイ小説もケータイで読まれることが前提なので、それを書籍化するとチグハグになっています。
とはいうものの小説などの文章は文字情報ですから、紙の本に書かれたものが電子書籍になっても多少の読み難さは残るかもしれませんが読めはします。そもそも、紙の本だって旧仮名遣いを現代仮名遣いに直されたり、文字が大きくなったり横書きになったりとレイアウトが変わってきました。出版当時の形態を保った古典作品などありません。内容も時代背景が異なれば解釈のされ方も異なってきますしね。たとば蟹工船とか。所謂文字情報は電子書籍により大きく変化はしないのではないでしょうか。既に新聞記事などは、新聞紙面と同じ内容がネット上にも公開されています。新聞紙のレイアウトも限られた紙面上に多くの記事を、そして見出しを操り目立たせることで、たくさんの文字があるのに読みやすい構成になっています。新聞記事の文章は新聞紙の制約の中で発達してきたので、新聞紙面上で最も読みやすい文章に最適化されているでしょう。しかし、ネット上に公開された新聞記事を読んでもURLの記述やリンクを除けば問題なく読むことが出来ます。

僕にこの本をめくれと言うのか

小説などの文章以上に紙の本であるという媒体の影響をダイレクトに受けるメディアが存在します。それが漫画です。WEB漫画やモーニングツーをはじめとし、出版された漫画が電子化されていますが何だか違和感を覚えます。それはなぜでしょうか。
漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 上巻・視点 は本の形をした漫画を再認識することから始まります。本は平面のようですが実際に開いてみて分かると通り、湾曲しています。そして読者が見る視点も一定ではありません。本書は漫画の形態からはじまり、コマを移動する、そしてページを「めくる」ことで生じる漫画の読まれ方を論じています。日本の漫画は右開きですからストーリーは右から左に進んでいきます。演劇や映画などは洋の東西を問わずにストーリーは右から左へと進行していきます。これらの映像メディアと同様のストーリーの流れを日本の漫画が持っている点は大変興味深く、本書でも漫画におけるベクトルの向きに注目しています。例えば、同じ攻撃だとしても漫画の進む方向である左向き(←)の方が加速力が付きます。また一般に右側の方に主人公が配されることが多い。
このように日本の漫画は出版され本になることを前提として発展してきました。故に、既存の漫画をそのままPCの画面などで見ると違和感を感じるのは当たり前といえば当たり前。PCの画面で左右のページを開くことが出来ますが、進む際に←に進むのは何だか変です。携帯電話でも既存の漫画が読めますが、画面の小ささもあいまって変な感じ。もちろん、携帯電話用にコマごとに読めるツールやサービスもありますが、それは本で読む漫画とは違う印象を受ける。もちろんはじめからWEBやPCで読まれることを想定された作品なら別ですが。
その他、コマに描かれる視点は誰の主観なのか、読者の視点はどのようにコマを移動していくのか。漫画における時間とは?など漫画読みとして興味深い考察が盛りだくさんです。本書は漫画を書く人のみならず、漫画を読む人が知らず知らずに行っていることを紐解いています。当たり前のことですが、言語化することではじめて論じることができるのです。漫画の読み方の解体というよりも、漫画がどのように読めるのかを解釈した本です。漫画を描く人から漫画を読む人なら間違いなく面白い。そして漫画を読まなくても、絵と文字により生じる画面効果などに興味がある人も是非是非。