他人の気持ちを考えるのは鏡を覗いているのと同じことだ

最近、白い戯言のwhiteball22さんがはてな匿名ダイアリーのネタを仕入れてくれるので、増田界隈の出来事が分かるので色々助かっている。

「他人の気持ちを考えろ!」=「俺(私)の気持ちを考えろ!」

「俺(私)は他人の気持ちが分かる」と吹聴している人がいますが、そんなことはありえない。誰だって、他人が何を考えているかなんて分からないと思うのよね。
僕の経験上、「俺(私)は他人の気持ちが分かる」と吹聴する人ほど他人の気持ちを考えてないことが多い気がします。そして、そういう人が言う「他人の気持ちを考えろ!」は「俺(私)の気持ちを考えろ!」なことがままあります。つまり、ただのわがままな人。本当に、他人の気持ちを考えているのなら、おいそれとは「俺(私)は他人の気持ちが分かる」とか「他人の気持ちを考えろ」とは言わないと思います。

他人の気持ちを考える時、自分を元として推量することしか出来ない

賭博黙示録カイジのEカード最終戦で、カイジ利根川のこんなやり取りがあります。

カイジ利根川。俺が蛇に見えたか」
利根川「蛇だろうが」
カイジ「そうか。ならお前が蛇なんだ」
利根川「え?」
カイジ「こんなふうな物言わぬカードを使っての心理戦は鏡を覗き込むようなもの。相手の心を読んでるつもりが、気がつけば自分ならどうするかという自己への問いかけになり、いつしか読みもくそもなくなる。つまり俺が蛇に見えたお前こそ蛇なんだ」

他人が何を思っているのかを考える時に、我々は自分の体験や考えを元に推量しています。特に、上記のEカード戦のようにお互いを深く知らない場合は「自分ならどうするか」、「自分の嫌なことは他人も嫌だろう」と判断するしかありません。つまり、自分の考えで判断するしかありません。それなりの付き合いだったら、他人が何が好きで、何が嫌だったのかという記憶力=体験も当てになりますが、100%ではない。そして、それは自分の中でのある人の人物像を元に考えているわけで、その人自身ではない。結局、自分の中で判断するしかなく、それはまさに「鏡」を見て自分自身を覗いている様なものです。
他人の気持ちを100%理解することは出来ないのだから、他人の気持ちを分かったような気になるの気のせいだ。

人と人は分かり合えないのか?

「他人が何を考えているかなんて分からない」と、なんとも絶望的な感じですが、それは人が分かり合えないという事ではない。他人の気持ちを100%は理解できないが、ほんのちょっとでも理解できれば少しくらい分かり合えるだろう。そして、それが積み重なってよく分かって来るじゃないかな。
他人の気持ちは分からないけど、「自分の嫌なことを他人にするのはやめなさい」てのは一理あって、そう考えてることが「思いやり」に繋がる。例えばおもてなしで、誠心誠意楽しんでもらおうと尽くす気持ちは相手にも伝わると思うのですよ。まぁ、先日のフジでやってた新美味しんぼでのエピソードの受け売りですが。他人の気持ちが分からないことと、他人の気持ちを考えることは別物でしょう
そもそも。自分自身の気持ちも100%分からないのだから、ましてや他人の気持ちなんてと思いますけど。

まとめ

  • わがままな人の言う「他人の気持ちを考えろ」=「自分の気持ちを考えろ!」
  • 他人の考えを推量するのは「鏡」を見て自分自身を覗いている様なもの
  • 他人の気持ちが分からないのと他人の気持ちを考えないのは別物

なんつーか、結局空気嫁って話なんだよなー。