長文を書く理由
人力検索はてな - なんで皆さんは、ダラダラと長文をかくのですか?なんて質問があるわけですが、なぜでしょうね。
私はここ最近、だらだらと長文ばっかし書いてるわけですが、その理由は自分の考えをまとめたりだとか、言いたいことがあったりだとか、まぁそんな感じ。面白いこと(自分にとって)を思いついたので、忘れないようにメモ兼まとめつつ、それを誰かが評価してくれたり、共感してくれたら嬉しいので更新しているのだろう。
- 歓楽叶わぬ納骨堂庭園 - 取り上げられ言及される事の喜び
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- たくさんのアクセスも嬉しいことだが、たった一つの言及はそれ以上の喜びに
というわけで、何かを語りから長文を書くというのが真理だと思うのですが、何故こうも長くなってしまうのか。
その理由は、他人に何かを説明するには手取り足取り伝えないと、伝わるものも伝わらないから。例えば、自分の書いたメモ書きならば、どんなに短文でもよっぽど突飛でない限り理解できますが、他人にはそのメモ文の意味も分からなければ、それが書かれた経緯も絶対に理解できない。身内なら、ある程度は話題の背景や、自身のバックグランドを説明せずとも意思を伝達できますが、ネットのような公に文章を書く場合、それらを逐一説明する必要がある。故に、何かたった一つのことを伝えるだけなのに、長大な長文が出来上がってしまうのだろう。
- 関連過去ログ
本件とはあまり関係ないが、実名ブロガーの利点は実名により、その人のバックグランドを知ることができ、かつ話題に関しても特に説明する必要が無い点だろうか。しかし、ネット上にはその人を知らずに読んでいる読者もいるので、そこに齟齬が生じ、炎上というパターンが多いのかなぁとも。
2種の長文
長文にも色々あるのではないかと思い、自分の書いた長文を見返してみると、2種類の長文が存在することが分かりました。一つは兎に角勢いだけで書いた長文と、もう一つは稚拙ながら推敲しつつ書いた長文。
勢いで書いた長文は、その場の乗りだけで書き上げたり、長文にするつもりは無かったのに書き上げたら結果として長文になっていたという場合が多い。ともに書き上げた瞬間の本人は非常にすがすがしく、「俺って天才?」などと自惚れているのだけど、時が経ち読み返すと、文章構成がグダグダで見るに耐えないことがほとんど。しかし、稀に偶然が重なったり、書き上げた時の熱意のためか、それなりの文章も存在するので辞められない。
このように勢いだけで書いた文章は、構成や、分かり易さ、コンパクトさを考えずに書いているので無駄にだらだらと長い文章になってしまう。
逆に、推敲した文章は不必要な部分を削ってあるのでコンパクトに仕上がり、後で読み直しても、そこまで自分のひどさに悶えることは無い。かといって、プロじゃないので完全とは言えず、勢いで書いたほうが熱意が伝わる場合もある。
読めない長文と読める長文の差異
さて、世の中には読める長文と読めない長文がある。どんなに長くても最後まで読める文章もあれば、短くても読めない文章もある。その違いは一体何だろう。
読み易い文章は、主題がはっきりしていて、テンポが良くて、コンパクトにまとまりつつ、説明すべき所が説明されている文章か。先の勢いだけの文章と推敲した文章の例を挙げれば、勢いだけでダラダラと書かれた文章の多くは読みにくい文章で、それなりに推敲された文章は読み易い文章だろうか。しかし、プロじゃない私みたいな普通の人は下手に推敲すると文章のテンポが無くなり、でも推敲しないとコンパクトに収まらないというのが必然だろうな。
というわけで、私なりに長いながらも読み易い長文の条件を列挙すると
- 主題がはっきりしている
- 題名や小見出しの活用。
- 文中での繰り返しも重要だが、何度も主張するとくどい
- 話題の経緯が分かり易い
- 話題が発生した経緯があると文章に入り込み易い
- 及び、著者の主題の経緯も推測できる
- 著者のバックグラウンドもさらっと解説
- 例えば、PuHaの見聞録 - 誰の信者であるか宣言すれば無用な対立がなくなるかものように、自身のバックボーンを説明すれば、著者がなぜそのような考えに至ったのかも推測できる
- 文章のテンポが良くコンパクト
- コレができれば理想
ってことからしら。
ちなみにこの文章は、70%の勢いと30%の推敲でできてます。勢いがないと書けません。
- 参考リンク
- 『斬(ざん)』:長文読めない症候群
- こうすれば長文を読んでもらえる
- 読書速度測定
- 日本人の平均は600〜1000文字/分。サイトの平均巡回時間は一分と言うから、1000文字以上は長文だろうか。