「センター試験に漢文は必要か」は「漢文を教える必要があるのか」と地続きでしょ

日本よ、この期に及んで「古文・漢文」が必要だというのか
仰々しいタイトルではありますが、増田の主張は「漢文を教える必要があるのか」ではなく「受験科目として漢文が必要か」、より正確には「センター試験に漢文は必要か」にあるのでしょう。

増田は追記で、はてブのコメントは「漢文を教える必要があるのか」ばかりで、「センター試験に漢文は必要か」を読み取れていない人が多すぎるとぼやてますが、タイトルでミスリードを誘っていますし、主張を読み取れていない人が多いのは、増田の書き方にも問題があるでしょう。

一方で「センター試験に漢文は必要か」は「漢文を教える必要があるのか」と地続きでもあります。つまり、漢文の必要性を説くことは、センター試験に漢文が出題される理由でもあります。ただし、それをつなげるには、100文字では足りないので、昨年の話題ではあるものの、ちょうどセンター試験なので私の考えを書いてみます。

センター試験の国語は、評論文、小説、古文、漢文からなり、それぞれの50点で、200点満点となります。ただし、この200点がそのまま200点となるかは、大学や学科によって異なってきます。
センター試験共通一次の流れをくむ試験方式で、一次試験であるセンター試験と各大学が実施する二次試験の結果により、合否が決定されます。大学によっては、センター試験で受験者の選抜、つまり足きりが行われます。
センター試験の結果をどのように配点するかは、大学や学科によって異なります。一般に、文系の学科では国語や社会などの配点を高くし、理系科目を低くする傾向にあります。理系科目の結果を加味しないこともあります。また、学力試験としてセンター試験のみを利用し、二次試験として論説や面接試験による選抜を行うこともあります。あるいは二次試験をまったく実施せず、センター試験のみで合否を決定する大学すらあります。
つまり、国語ひとつにしても、大学や学科によって、配点や取り扱いが異なってきます。国語は200点満点ではありますが、理系の学科では100点として扱われたり、全く加味されない場合すらあります。

というわけで「センター試験に漢文が必要か」を考えるには、大学や学科によって国語の配点の割合が異なってくることを意識しなければなりません。
先ずは、大学における国語の配点から、国語をどれくらい重視しているかを見てみましょう。

東大は文系、理系ともに国語は200点満点として扱われます。正確には8科目900点満点を110点とし、二次試験の440点と合わせて合否を決定しています。二次試験で、文系、理系のどちらにも国語が出題されます。

京大は、センター試験の国語を足きりのために利用しますが、合否の点数として加味しません。面白いことに、文系はセンター試験の社会が50点、理科が100点の合計150点、理系は社会が100点を二次試験の結果と加味して合否の判定をすることです。理系の理科は足きりにのみに利用されるのです。二次試験の配点が、文系は650点で理系は700点と、東大に比べて二次試験重視となっています。また、東大同様に文系、理系共に国語が出題されます。

その他の旧帝大は、文系、理系共にセンター試験の国語を加味しています。学科によって国語の配点が異なるものの、二次試験ではそれぞれの専門科目のみ、つまり文系には数学がなく、理系に国語がありません。その他の大学も、この方式を採用することが多いように思います。ただし、名古屋大学は、東大や京大のように、文系、理系かかわらず、二次試験に国語と数学が出題されます。

国立大学の二次試験は前期と後期の二度実施されますが、後期では学力試験としてセンター試験の結果のみを用い、二次試験では論説や面接のみを課す大学や学科もあります。また、北見工業大学のように前期試験はセンター試験の結果のみで選考し、二次試験を実施しない大学もあります(なぜか、後期は二次試験がある)。このような大学では、センター試験のみが学力試験として機能しています。
センター試験のみを学力試験としている大学としては、網羅的に科目が合った方が学生を選抜しやすいでしょう。大学の課程において漢文が必要であれば、国語の配点を高くすればよいわけです。

二次試験のある大学だと、東大や、京大、名古屋大学などは、文系や理系を問わずに国語を重視するというよりも、高校までに習ったことをきちんと習熟していることが求められるのでしょう。教養をはかっているともいえます。
二次試験で理系に国語を出題しない大学も、センター試験の国語の配点の割合は異なるものの、やはり高校までに習ったことをある程度は習得した学生を求めているのでしょう。やはり、ある程度の教養が必要であると。
大学までにきちんと勉強できていなければ、大学に入っても大変というか、何も身につきません。もちろん、受験には色々な問題があります。ただし、試験結果のみで判断されるのは、ある意味平等といえるのではないでしょうか。問題は、試験ではかれない能力を持っている人がごうかくできなかったり、試験だけに特化された人ができたりすることでしょう。あるいは勉学できる環境にない人の救済なのかなと思います。

閑話休題
センター試験に漢文は必要か」を考えると、結局の所「漢文を教える必要があるのか」にたどり着くわけです。小中高の限られた学習時間に「漢文」を割くべきについては、以下の記事に説明を譲ります。

漢文学習がどんな役に立つのか、なるべく簡単に解説してみます: 不倒城

金融なり、法律なり、プログラミングなどを教えるべきだとの声もあるでしょう。しかし、世の中の仕組みってのはずーっと同じではなく、徐々に変わっていくものです。その変化に対応できるような教育がなされるべきです。つまり、分からないことを分かるようにする教育。義務教育である小・中学校は、学習の仕方を教える場になっていると私は思います。
この辺は、詰め込み型の日本と、そうではないアメリカなどでは全然違うみたいで、アメリカなどは大t学に入る前までは、レポートの書き方、スピーチの仕方、発表の仕方などをみっちり鍛えるそうです。アメリカ人はかけ算や地理には弱いけど、主張することだけは誰にも負けないってのはステレオタイプかもしれませんが、教育の賜でもあるのでしょう。

ところで、しばし選挙などの制度をきちんと教えるべきだとのツイートを見ますが、その辺はちゃんと社会でやっていると思うのですけどね?高校までの教科書をばっちり頭に入れれば、普通に教養が身につきますし、そのようなカリキュラムになってます。

はてななので、漢文ばっかりやり玉にあがるのでしょうが、数学が苦手な人からしてみると、あるいは一般的には「数学なんて人生で役に立たない」って声の方が大きいんじゃないでしょうか。はてなの利用者なら、数学を勉強すべき理由に疑問を持たないでしょう。「数学はセンター試験に必要ない!」とか書いたら、炎上以前にただのバカ呼ばわりされそうです。

どの科目を教えるべきかは、数学を勉強すべき理由とまったく同じで、概念を取得した方が、より役に立つからです。概念を取得するために、法律や金融などを教えたってよいわけですが、新しいものに晒されながら、それでも長きにわたり生き残ってきた「古典」はそれだけ取捨選択が進んでいます。教育方法も蓄積されています。つまり、効率が良いわけです。そもそも、数学にしたって、理科にしたって「古典」を教えているわけですし。一方で、歴史はどんどん変わるから大変だなぁと思います。理系は理系で、どこまで教えてよいのかの選別が大変ですけども。

というわけで、長々と書きましたが、「センター試験に漢文は必要か」は「漢文を教える必要があるのか」と地続きなので、その疑問の答えとして漢文の有用性を述べるのは、全然的外れじゃないよと。というか「受験科目に○○が必要か」とか言いだしたら、多分どの科目でも地獄を見る。