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ビー玉の語源を追い求めて

《「ビー」は「ビードロ」の略》子供が遊びに使うガラス玉。
ビーだま【ビー玉】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

ビー玉の語源は大きく分けて2つある。一つは、ポルトガル語でガラスを意味する vidro(ビードロ)から、ビードロ玉の略とする説。上記に引用したように、多くの辞書はビードロ玉の略であると説明している。
一方は、ラムネ瓶の栓に使用できるガラス球を「A玉」、規格外品を「B玉」と呼称し、不良品である「B玉」を子供用の玩具として転用した説。

私は以前からB玉説に疑問を抱いていた。転用して販売できるほど規格外品ができるのならば、そもそも製造工程を見なおすべきだ。また、ガラスは溶かして再利用できる。販売できるほど規格外品ができるだろうか。
ビー玉(だま) - 語源由来辞典 は「B玉」として販売した文献がないとしている。しかし、ビー玉は大阪で製造されていたらしいが、いつごろどこで作られたのか。 | レファレンス協同データベース によると山本孝造の書いた「びんの話」に「明治(時期は不明)、ラムネの玉壜に入れて使えない不良品“B玉”を大阪の松屋町筋の玩具問屋街で売るようになった」と記述されているらしい。アマゾンで中古品が送料込みで450円だったので買ってみた。

ラムネ瓶の誕生

「びんの話」によると、日本ではラムネ瓶としてしられる、ガラス玉で炭酸飲料の栓をする瓶はイギリスのハイラム・コッドが考えだし、英語ではコッズ・ボトルと呼ばれるそうだ。炭酸飲料はシャンパンのようにコルクで栓がされていたが、電気のない当時は栓をするのも大掛かりで、内圧は今よりも高かったため外す際の事故が多かったらしい。そのため、瓶をひっくり返せばガラス玉により自然と栓ができるラムネ瓶は当時としては画期的だった。ラムネ瓶の登場により、炭酸飲料が多くの人に飲まれるようになった。ただし、その後直ぐに王冠に取って代わられた。現在、欧米ではラムネ瓶はほとんど製造されていないそうだ。

さて、ビー玉の語源の由来が書かれた箇所を引用しよう。

明治時代には、まだガラス玉を造る機械がなかったようだから、出来上がった玉の直径に微妙な差異が生じた。そこで、ラムネの玉壜に入れて使えるのを“A玉”に、不良品を“B玉”にと選り分けた。そして、良い(ええ)玉でないほうのB玉は、再び熔かされていた。しかし、大阪の商人に、知恵者がいたらしい。その時期もわからないが、このB玉を松屋町筋の玩具問屋街で売るようになった。これがビー玉の名前の由来として、一つの有力な説である。
『びんの話』 (山本 孝造/著 日本能率協会,1990.11) 「第8章 ラムネとサイダー」 p. 156

伝聞のため定かではないが、ガラス玉の不良品をB玉として売ったという話はあったのだろうと思われる。

それでは、ビー玉を売り始めたのはいつなのか。「びんの話」によるとラムネ瓶は、明治20年前後から神戸の外国人商社の手で輸入されはじめたようだ。その後明治25年には大阪のガラス製造業所が国産化に成功している。B玉説をとるならば、明治25年以降、恐らく明治30年前後からビー玉が販売され始めたと考えられる。

「びんの話」にはもうひとつ面白い話が紹介されている。ラムネ瓶の生まれたイギリスの子どもたちは、コッズ・ボトルを割ってガラス玉を取り出し、それを使って玉あて遊びをやっていたらしい。ガラス瓶はリターナブルされるもので、駄菓子屋などでは飲み終わったラムネ瓶を返すと瓶代が返金される。飲料メーカーとしても、新しい瓶を買うよりもリターナブルする方が安上がりである。ガラス玉欲しさに瓶を割られてしまうと飲料メーカーとしては困ってしまう。そこで、玉として転がすことのできないタマゴ形のガラス玉をストッパーとしたラムネ瓶も開発された。
このエピソードから、当時のイギリスの子どもたちにとってラムネ瓶のガラス玉は割ってでも欲しくなる魅力的なものだったということがわかる。これは日本の子どもたちも同じではないか?日本の子どもたちがラムネ瓶を割り、中のガラス玉を取り出し遊んだという文献は見つけられなかったが、ラムネ瓶のガラス玉が子どもたちにとって魅力的に見えたのは間違いないだろう。
それでは、ビー玉は子どもたちにどのように広まっていったのだろうか。ビー玉遊びの変遷を追ってみた。

ビー玉遊びの歴史

ビー玉遊びの歴史に関しては、ビー玉|日本文化いろは事典 や中田幸平著、江戸の子ども遊び辞典(八坂書房)を参考にした。

ビー玉は遊びは元々賭博であり、銭を使った大人の遊戯であった。陣地内にあらかじめ銭を置いておき、ある程度離れた場所から銭を投げ陣地内にある銭を弾き出すと、その銭を自分のものにできた。ただし、陣地内に投げた銭が残ると負である。これが子どもの遊戯として広まり、江戸時代には「穴一」などと呼ばれていた。子どもが銭で遊ぶ訳にはいかないため、銀杏などの木の実を用いていたが、中でも人気が高かったのはムクロジの実であった。ムクロジは数珠にも使われる。実が球形であることから、如何に上手く投げ当てられるかを競い合う楽しさにつながった。また、実そのものを投げやすい重さに調節したり、実の外に装飾を施したりと、工夫する面白さにもつながった。

明治の初期になると、玩具業者が粘土を丸めて焼き、彩色などを施した玉を売り出した。泥玉、泥焼玉とも呼ばれ、大層人気があったらしい。この泥玉は城郭などが崩される際に、武器庫から大量に出てきた素焼きや粘土の玉を商人が売りに出したものとも言われている。元々、泥玉は演習用の鉄砲の弾丸であったらしい。ただ、この話も真偽の程は定かではない。商人が、演習用の弾丸からヒントを得て泥玉を販売し始めたのかもしれない。泥玉は、ビー玉 でその写真を見ることができる。

「江戸の子ども遊び辞典」にも、ビー玉の項においてラムネ瓶にまつわる話が紹介されている。それによると、ガラスは江戸時代までは高価な品で庶民にはなじみがなかった。それが明治期になってガラス瓶の広まりにより、一般的になっていった。ラムネ瓶がその代表で、ラムネ瓶の中にあるガラス玉は子どもにとって魅力的であった。しかし、ラムネ瓶は高価であり空き瓶は返却しなければならず、割って中身を取り出すまでには至らなかった。
泥玉が下火になりつつあった中で、次の一手として玩具業者はラムネ瓶の中にあるガラス玉に注目していたが、ガラス自体が高価であったため販売するには至らなかった。その後、ガラス瓶が普及するに従いガラス玉の生産ができるようになった。そこで、玩具業者は泥玉に代わってガラス玉を販売し始めた。子どもたちは憧れのラムネ瓶の中にあったガラス玉を手に入れることができるようになったわけだ。

ビー玉|日本文化いろは事典 によると、明治30年頃から大阪の玩具業者が販売していらしい。「江戸の子ども遊び辞典」では、このガラス玉は元々ラムネ玉と呼ばれていたが、いつしか東京ではビードロ玉が転化しビー玉となったとしている。

日本におけるガラス瓶の普及

ガラス玉が大阪の玩具業者が販売される以前、日本のガラス、特にガラス瓶製造はどのように発展していったのか。
「びんの話」によると、明治19年頃にビールが国産化され、その結果ビール瓶が不足したらしい。当初は輸入ビールの空き瓶を再利用していたが、ビールの国産化によりビールの輸入も減ったためである。その結果、ビール瓶の国産化が進んだ。同じ頃にそれまで徳利などで量り売りされていた日本酒もガラスの瓶詰めで販売されるようになった。先に述べたように、同時期に酒類以外のラムネを始めとする飲料もガラス瓶で販売されるようになっていった。つまり、明治30年以前に、ガラス瓶の需要が高まっていた。時を前後して、明治25年に当時大手だった品川硝子会社が解散したことで、多くのガラス職人が各地に広まり独立し、その結果ガラス工場が増加した。つまり、日本のガラス製造業は明治25年から30年頃に広まり発展していったと考えられる。

このことから、明治30年頃からガラス玉製造販売され始めたと考えるのは自然ではないだろうか。つまり、ラムネ瓶のガラス玉として利用できない不良品がB玉として販売されたとは考えにくい。

しかし本当に、A玉、B玉は存在しなかったのか。ラムネ瓶の作り方から検討してみる。
ガラスの知識シリーズ9 に簡単な図説がある。先ず大まかのラムネ瓶の形を作るが、口は未完成のままにしておく。そこにガラス玉を入れてから瓶の口を閉める。その際に、口に溝を切っておく。その溝にパッキンとしてゴム環をつけることでガラス玉によりピッタリと栓がされるわけだ。栓をするメカニズムで重要なのはゴムの弾力性だ。そう考えると、ガラス玉はある程度の大きさがあればきちんと栓がされるとはずだ。File:Image-Codd bottle.jpg の写真を見るとガラス玉は随分ガタガタしている。やはり、ある程度の大きさがあればゴム環にはまり、きちんと栓ができるのだろう。

以上から、ラムネ瓶の栓に使用できるガラス球を「A玉」、規格外品を「B玉」と呼称し、不良品である「B玉」を子供用の玩具として販売した説は疑わしい。少なくとも「A玉」は存在しなかったのではないか。しかし、ある一つの仮説を立てることはできる。「ラムネ瓶に入れて使えるA玉は存在しないが、不良品として売られたB玉は存在した。」
先にも述べたように、売れるほどの不良品ができるのは製造業として成り立つだろうか。また、ガラスの不良品ならば溶かして再生産すれば良い。また、明治期に規格品をA、規格外品をBとアルファベットで選別するのも不自然である。可・不可、合・否、良・悪などの方が自然であろう。日本の明治期の英語教育については、小学校英語は明治より存在した! らしいが、アルファベットがどこまで一般的だったのかはよく分からない。

穴一遊びをする子どもたちにとってラムネ瓶の中にあるガラス玉は憧れであった。同時に、穴一遊び用に玩具業者が販売していた泥玉は徐々に下火になっていった。ガラス製造業の発展によりガラス玉を量産できるようになり、玩具業者は泥玉に変わる商品として売りだした。その時に、ラムネ瓶の中身のガラス玉であることを説明するため、「ラムネ瓶のええ玉=A玉ではない、B玉」という宣伝文句で販売したのではないか。商人ならではのジョークというわけだ。この場合、ビー玉の語源はビードロ玉であろう。

日本におけるガラスの変遷

最後に、ガラスの呼称の変遷を追っみよう。硝子の歴史|木本硝子株式会社 によると、日本では古来から勾玉としてガラス玉が作られていた。その時は、瑠璃やとんぼ玉と呼ばれていたようだ。平安になり日本のガラス製造は一旦途絶えるが、16世紀後半にポルトガル人がガラスを、オランダ人がその製法を伝えた。その頃になると、ガラスはポルトガル語ビードロオランダ語のギヤマンとも呼ばれるようになった。ビードロの名は喜多川歌麿美人画である「ビードロを吹く女」などで見ることができる。明治になると、イギリス方式で硝子が作られるようになった。日本のガラス製造を広め発展させた、品川硝子も英語の「ガラス」を元としている。
日本ガラス工業史【松徳硝子 | うすはりBLOG】 | 日本の近代硝子工業史 によると明治の初期頃から「ガラス」という名称が一般的になったとする。ガラスが一般的になったのは明治中頃から後半であり、「ガラス」という名称もそれに伴い広まっていったと考えられるが、しばらくは「ビードロ」や「ギヤマン」が混在していたはずだ。ビー玉が販売され始めた、明治30年頃はビードロとガラスのどちらも使われていただろう。ビードロ玉がビー玉となったと考えたほうが自然ではないだろうか。

泥(どろ)玉とビー“ドロ”玉とビー玉

  • 明治におけるガラス瓶の発展
    1. ラムネは明治20年頃から販売され始めた。
    2. ラムネ瓶の国産化は明治25年頃。同年に品川硝子会社が解散しガラス職人が各地に広まり、結果ガラス製造業が盛んになった。
    3. ラムネ瓶の中にあるガラス玉は子どもたちに魅力的であったが、ラムネ瓶は高価で返却するのが常であったため割ってて中から取り出すことは難しかった。
  • ビー玉遊びの変遷
    1. 元々は銭を用いた賭け事であった
    2. 江戸時代には穴一として木の実などを用いて遊んだ。その際に木の実の加工が子どもたちの間で流行した。
    3. 明治の初期から中期頃に、玩具業者が穴一用に泥玉という粘土を丸めて焼いたものを販売し始めた。
    4. 明治30年頃にラムネ瓶のガラス玉に目をつけた玩具業者が、泥玉の代わりにガラス玉を販売し始めた。
  • B玉説に対する疑問
    1. 当時のガラスは高価であり、売るほど不良品ができるのは製造業として成立するか
    2. ラムネ瓶は、ガラス玉を入れれから口をすぼめゴムパッキンをつける。ガラス玉はある程度の大きさがあれば栓として機能する。
    3. 明治の頃に、規格品とA、規格外品をBとするのは不自然

明治20年頃から、「ガラス」という名称が一般に広まり、しばらく「ビードロ」と混在していたことからも、ビードロ玉が転化してビー玉をなったと考えるのが自然だろう。もちろん、玩具卸問屋が「ラムネ瓶のええ玉=A玉ではない、B玉」として販売した可能性もある。

それにしても、穴一の主流が、泥(どろ)玉からビー“ドロ”玉に変わったのは奇妙な一致である。