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屍者の帝国において「X」に何を代入するか

屍者の帝国

屍者の帝国

屍者の帝国」において、ザ・ワンは人間の意志は「菌株」により生じると言った。屍者化の技術は、人間を不死化する技術ではなくその「菌株」を不死化する技術であるという。なるほど、それならば生者と屍者の意識が連続でない理由も頷ける。しかし、人間以外に感染しない「菌株」は人間が存在する以前はどこに存在したのだろうか?ザ・ワンは言う。「菌株」で納得出来ないならば「X」とし、任意の言葉を代入しろと。屍者の帝国において人間の意識、そして屍者を作り出した「X」とは何なのか。

細菌の世紀

屍者の帝国」は、1878年から1881年の話である。円城塔インタビュー詳報:故・伊藤計劃との共著「屍者の帝国」を完成させて から推測するに、屍者化や解析機関そしてノーチラス以外の科学技術は当時とそこまで変わらないと考えて良いだろう。科学が史実通りならば、1878年から1881年は、コッホにより細菌病原体説が証明された直後にあたる。
1674年にオランダのレーウェンフックの顕微鏡観察により細菌が見出された。1860年にフランスのパスツールにより生命の自然発生説が否定され、1876年にコッホが炭疽菌の純粋培養に成功し、炭疽の病原体であることをつきとめた。これにより、細菌が病原体であることが広く認められるようになった。
ちなみに、ワトソンは作中でコレラに羅患する。コッホによるコレラ菌の発見は1883年である。しかし、その30年も前の1852年にイギリスの開業医であるジョン・スノーらがコレラは糞尿から経口感染することを疫学調査により明らかにしている。恐らく作中のコレラ患者に対する扱いは妥当なのだろう。

細菌病原体説は屍者の帝国においても最先端の研究であり学説だ。医学生のワトソン君はもとより、博学なザ・ワンも当然知っていただろう。屍者を動かす因子、あるいは人間の意思を生み出した「X」を、感染した宿主の中で増え、そして他の宿主へと感染していく「菌株」と表現するのは、ある意味で最先端な考え方とも言える。
ザ・ワンは人間の意識を生み出したものがある種の実態を持っていたと確信している。だから「X」に「菌株」を代入したのだろう。その証拠が結晶化された菌株だ。しかし、菌株は結晶化するであろうか。

言葉と虐殺器官

ザ・ワンと対立した考えを持つヴァン・ヘルシングは「X」に「言葉」を代入しろという。「虐殺器官」において、虐殺を引き起こすのは「言葉」であった。
虐殺器官」の主人公であるシェパードはジョン・ポールの残した虐殺の文法を手に入れる。ジョン・ポールによると、人間は飢饉など虐殺を行わなければ種が存続できない状況に陥ると、言葉により脳内にある虐殺器官を働かせ虐殺を始めるのだという。逆に言葉を選択することで虐殺器官を働かせ虐殺を引き起こすことも可能であると考え、ジョン・ポールは虐殺の文法を見出した。伊藤計劃は「虐殺器官」において、ホロコーストも意識していたのだろう。屍者の帝国においてもイスラエルが大きな比重を占めていたのだろうなと思わせる。
物語の最後で、シェパードは虐殺の文法をインターネットにより拡散させる。その結果、世界中で虐殺が起こる。直接描写されたわけではないが、この世界中の混乱こそが「ハーモニー」における大災禍(ザ・メイルストロム)なのであろう。

人間は「言葉」により意識を獲得した。人間の意識の中では言葉がせめぎ合っている。だから生者は考える。屍者は単一な言葉=ネクロウェアによるプログラムしか持たない。だからから屍者には意識が生じない。なるほど理解しやすい。アレクセイはバベル以前のアダムが用いた原書の言葉を探し求めた。そしてそれは青い結晶であった。しかし、言葉は結晶化するであろうか。

ウィルスの結晶化と遺伝子

結晶化する菌株。結晶化する言葉。この2つを満たすのがウィルスの存在である。ウィルスは結晶化するし、DNAあるいはRNAという言葉を有している。
1892年にタバコモザイク病が細菌よりも小さな何かによって引き起こされることが発見される。この何かは細菌よりも小さな分子からなると考えられていた。その後、1935年にタバコモザイクウィルスが結晶化され、ウィルスの存在が明らかになった。時代的に「屍者の帝国」において、ウィルスは見つかっていない。
ウィルスは遺伝子を有するがそれ自身で増殖することができない。他の生物の細胞を利用し増殖する。増殖はするが代謝をしないため生物とも無生物とも、そのどちらでもないとも考えられている。遺伝子も「屍者の帝国」の時代には一般的な学説ではなかった。
1865年にメンデレーエフがえんどう豆の交配実験を示し、1869年に細胞からDNAが抽出されているが、19世紀末において遺伝子という考え方は一般的ではなかった。これは屍者の帝国においても同じだろう。その後、20世紀初めに遺伝子という考え方が確立していき、1953年にワトソンとクリックが発表した二重らせんモデルにより、塩基配列こそが遺伝情報であることが認知された。

ウィルスの遺伝子がDNAのジャンク部分に残り、それがある時進化を引き起こす、という仮説がある。ザ・ワンの指す菌株とはウィルスを指しているかもしれない。ウィルスとはDNAやRNAといった情報の乗り物である。この時、ヴァン・ヘルシングが「X」へ「言葉」を代入した条件も満たす。

しかし問題もある。先ず、ウィルスの結晶は劇中で描写されるように手で持てる大きさまで成長させることはできないであろう。次に、DNAやRNAは神の言語と解釈できるが、原初の言葉、つまりアダムの発した言葉ではない。DNAやRNAがネクロウェアと関連するとも思えない。そもそも、現代の学説から考えればエデンはアフリカにあるべきで、当然神の言葉、アダムの言葉もアフリカにあるべきだ。アフガニスタンにはないだろう。
「X」に「ウィルス」を代入しても、しっくりとはこない。

屍者による熱的死

屍者の帝国」において、屍者化を望む「X」に介入しなければ世界は屍者に溢れ、題名の通り屍者の帝国になってしまうことがザ・ワンにより示唆された。結局、ザ・ワンの目的は別のところにあり、屍者の帝国が回避されたのかはわからない。伊藤計劃ならば意識の生じた屍者が世界中にはびこるラストを描いたかもしれない。屍者の帝国にはどのような問題があるのか。

屍者の帝国ができあがると、世界の熱的死が早まるだろう。熱的死については、最近だと魔法少女まどか☆マギカインキュベーターであるキューベーが問いていた。宇宙全体のエントロピーが増大しきって何もかもが発散してしまった状態である。生命は勿論、星すらも生まれなくなった宇宙を指す。
屍者がはびこる世界として想起されるのが、リングシリーズにおける「らせん」と「ループ」の関係だ。「らせん」は山村貞子のコピーが溢れかえる世界の恐怖を描いている。山村貞子で溢れかえった均質な世界は熱的死を迎えるだろう。「ハーモニー」のラストで人間は意識を消失したが、均質化した人間に未来はあるのだろうか。
「ループ」では「リング」と「らせん」の世界が生命の進化をシミュレートであることが明らかになる。さらに、仮想世界の住人であるはずの山村貞子が実社会に悪影響を及ぼし始めたためシミュレーションが停止されている。仮想世界の山村貞子を撲滅しなければ、現実社会への悪影響は止められない。現実社会の問題を解決しなければ、仮想世界で山村貞子の存在を消去できない。仮想世界と現実とかリンクしループを形成してしまっている。

改変される世界

屍者の帝国はどのような世界かをもう一度考える。
アレクセイやザ・ワンは結晶化された「言葉」を発見した、第三部においてザ・ワンが生じさせた線は情報そのものである。線はSelf-Reference ENGINEにおける超知性体のように演算し続ける。つまり、屍者の帝国は情報が物質化する世界である。言葉そのものが世界を構成している。「ループ」における「リング」はプログラムという言語で構成された世界だ。なぜ、情報が物質かされるのか。それは、「屍者の帝国」はフライデーが書いた物語であるからだ。物語は言葉で表現される。「ディファレンス・エンジン」が世界を記述するように。
私の説明はループしている。しかし、再帰性こそが「ディファレンス・エンジン」を産んだ。再帰性がフライデーに「屍者の帝国」を執筆させたのだ。
屍者の帝国ワトソンはどうなったのか。やはり、シャーロック・ホームズシリーズの登場人物という他の世界線へ移動していったのだろう。ワトソンもヴァン・ヘルシングはフィクションに記された人物だ。「屍者の帝国」に登場す実在の人物、事実も、今や歴史にしか記されていない。「屍者の帝国」は歴史改変モノというジャンルでもある。物語において世界を改変するのは常に「言葉」なのだ。そして物語において、物語を記述するものこそが「神」であり、その言葉は「神の言葉」でもある。

つまり、「X」に代入すべきは「言葉」である。
ただし、「言葉」だけで意識が生じるわけではない。高度なネットワークからスペクターが生じるように、意志が生まれるには情報の網が必要だ。高度なコンピューターが意思を持つように、ターミネーター3においてインターネットから人類の的であるスカイネットが生まれたように。意思が生まれるには、場が必要となる。「ハーモニー」以後の世界は人類は意思をもたない。しかし、人間同士が互いにネットワーク化している。ネットワーク間に共通の「言語」を挿入すれば、意思が生まれるだろう。その意志は情報思念体のような存在だろうか。屍者が溢れかえった屍者の帝国においても同様のことが起こるだろう。