ネタをネタと見抜く必要もないし、ネタとして楽しむ必要もないからマジレスしようぜ

「ネタをネタとして(ry」とか「ネタをネタと見抜けない人は(ry」なる言説は無粋だ。ネタにマジレスしている人にネタだと指摘するのも野暮極まる。これらの言葉は元を辿れば、ひろゆきの「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」なる発言だが、嘘がネタになると意味合いが大きく異なる。

ネタは仕込む物

寿司屋の話をしよう
寿司職人が魚や貝などを買い付ける際には目利きが必要だ。目利きはどんな商売でも必要だろう。寿司屋によっては自ら買い付ける場合もあれば、信頼する仲買人から買う場合もあるだろうが、最終的には職人の目が物を言う。魚の状態がわからなければ、店には出すことはできない。
さて、江戸前寿司のネタには仕事がしてある。元々の握り寿司の仕込みは、冷凍技術がなかったため、鮮魚を扱うのが難しかったため酢締めにしたり醤油漬けにしたりしていたのが始まりだ。現在でもしめ鯖や漬けは楽しまれる。また、冷凍技術が発達した今でも、美味しいお寿司の条件 にあるようにマグロなどは寝かせたほうが美味しい。ネタとは事前に仕込むものだ。

話術や奇術においてもネタを仕込むという。
例えば、人志松本のすべらない話は必ずしも面白い話ばかりではないが、彼らの話術は面白い。話の技工にも色々あって、盛り上げてオチを引きつけるパターンや、叙述トリック的に先にオチを言ったり、非常に短くまとまった話もある。どれも、事前に仕込まれたネタだが、実に自然に話す。これが良いネタだ。元々漫才などでネタを作ってきたからこそ出来る話術であろう。この時、事前に仕込んだように見えないほど良い仕事をしていると言える。

真実と嘘とネタと

「嘘を嘘と見抜けないと(掲示板を使うのは)難しい」
嘘を嘘だと見抜く必要はないが、インターネットから得た情報を何から何まで真実だと信じる人はインターネットを使うべきじゃない。インターネットに限らず、得た情報はその信頼度を吟味しなければ、無価値だ。
魚の目利きができなければいい魚屋や寿司屋を営業できない。情報の目利きができなければ情報を取り扱うことは難しい。ましてや、情報を吟味できないのに拡散するのは愚の骨頂だ。たとえばツイッターにおいて、すぐさまに広める必要のある情報など殆ど無い。だから、デマになりそうな情報をわざわざRTして広める必要など無い。

一方で、「ネタをネタとして(ry」になると事情が異なってくる。
先の寿司屋の例にも挙げたようにネタとは加工されたものである。別にネタをネタとして楽しまなくても寿司はうまい。聞いてもないのに職人がネタ仕込みの講釈を客に垂れたって寿司が美味しくなるわけではない。電車男は真実であろうがなかろうが現象として面白い。
ネタの仕込みを知っていたら別の楽しみ方ができるから、ネタをネタとして楽しんでもいい。寿司ネタの仕込みを知っていたほうが寿司は楽しめる。そもそも、「ネタをネタとして(ry」とツッコむには、ネタであると事前に知っていなければならない。話術や奇術においては、自然に見えるほど、ネタだと分からないほど良いネタである。よって、ネタをネタと見分けるのは難しい。マジレスされるほど自然に見えるネタとも言える。
インターネットにはネタがごろごろしているので、ネタだと断定するのは困難だ。例えば、彼のタイピングが気持ち悪い : 恋愛・結婚・離婚 : 発言小町 : 大手小町 は釣りっぽいがネタがどうかの判別はつかない。

ネタを楽しむ心の余裕が欲しいね

Togetter - 「ネタにマジレスする人、怒る人、そのまた周りで騒ぐ人 〜オムライス系女史江川紹子さんの場合〜」 を例にすれば、

妹の学校で、オムライスが禁止になった。理由は「タマゴがかわいそうだから」「ヒヨコにすらなれないから」。そんな理由で禁止にして欲しくない。オムライスが食べられない事を主張してもモテはしない。そんな偏見は男に失礼だと思う。そういう誤解はやめて欲しい。ぷんぷくり〜ん。

なるツイートは、瞬く間にコピペになってしまった Togetter - 「ボカロ禁止 から「妹の学校」コピペへ」 の流れか、一躍有名になったエビオス錠の記事である モテる女子力を磨くための4つの心得「オムライスを食べられない女をアピールせよ」 を知らない限りネタだと段するのは難しい。疑問を呈した江川紹子さんに「ネタですよ」とリプライするならまだしも、「ネタをネタとして(ry」とツッコミを入れるのは違う。
ただし、江川紹子さんにも非がある。

これは事実なのでしょうか。 RT @Messyie妹の学校で、オムライスが禁止になった…

江川紹子さんは元のツイートを略して非公式RTしている。元ツイートの「ぷんぷくり〜ん。」まで転載しておけば勘の良い人なら元ネタを知らなくても、ネタだと感づけただろう。本当に疑問に思ったのなら、中途半端な非公式RTではなくつぶやいた本人にreplyを飛ばせばよかったのだ。
我々としては、ネタですよと指摘された後に「オムライスが禁止された悲しい学校はなかったんだ・・・」と思えるくらいの余裕は持っておきたいものである。

この一連の騒動にはもう一つ気になることがある。なぜ、Togetter - 「ボカロ禁止 から「妹の学校」コピペへ」 とあっという間にネタとして消費されてしまったのか。
ネタとして消費された理由の前に、ネタの仕込みについて突っ込んで考えてみよう。

ネタによるパッケージ化

良く加工されたネタほど分かりやすいし、取り扱いやすい。素人が有名人のモノナネをするときは、モノマネ芸人のモノマネになる。野口五郎五木ひろし美川憲一のモノマネをやるときは、大体コロッケのネタのモノマネだし、タモリのモノマネをやるときはコージー富田のモノマネになっている。モノマネ芸人はモノマネする対象の特徴を要素化する。そして、その要素を大げさに誇張する。これがモノマネのネタ化。ネタ化されると素人にも扱いやすくなる。だから、素人はモノマネ芸人のモノマネやる。
似顔絵でも、特徴を取り出し大げさに表現する。これもネタ化だ。素人が誰かの似顔絵を描くときは、似顔絵師の似顔絵を真似ることが多いだろう。

萌えもネタ化と同じ機構である。萌え要素を切りだして、それを誇張する。また、萌えには文脈が不可欠だ。誇張されたアイテムや記号だけでは萌えは成り立たないが、これまで作られてきた萌え記号には文脈も内包されている。メガネならば真面目で内気、ツインテールなら幼くて強気、巫女ならば清楚など。少し前に話題になった、神戸新聞による ねとらぼ:「右のキャラが、いまいち萌えない理由を3つあげなさい」 - ITmedia ニュース の答えの一つは萌える文脈がないからである。また一方で、萌えキャラ商法が萌える理由も、これまで積み重ねられてきた萌え記号の文脈があればこそである。
萌えキャラ商法や地域活性化のために安易に萌えを使ってもイマイチ萌えない理由は、キャラクター性がないからだ。既存の記号を継ぎ接ぎして作られたフランケンシュタインのような萌えと言えるだろう。

なぜ「萌え」か

萌とはネタのパッケージ化である。取り扱い易いし、理解もさせやすい。
萌えも消費されるものである。さて、萌えとはなにか。
萌えとは到達することのできないものであった。かつては「このキャラクターに萌える」と発言することは、「私はこのキャラクターに興奮する」と宣言することに近かったように思う。しかし「萌え」の拡散により、その意味も広がってしまった。現在では「(オタク文化として)かわいいこと、かわいい記号」という意味になっているように思う。そう考えると、「萌え」じゃなくて「ブヒる」!? ネット界隈に広がる新しい視点 で語られる「ブヒる」は「萌え」の原点回帰と言えるのかも知れない。
たまごまごさんの「ブヒる」の変遷に関して有村さんは 真・「ブヒる」の歴史 または、自虐も他者が行えば加虐です において偽史であると言及しているけども。

ネタ化し消費する

萌えのようにネタ化することで消費しやすくなる。また昨今はお笑いに見られるように、ネタはコンパクトにまとまっているものほど好まれる。M-1のネタは4分間で、既存の漫才に比べれば十分に短い。しかし、ネタのコンパクト化のため4分が随分と長く感じられる。「M-1グランプリ」で戦うために で語られるようにM-1にはネタの手数とスピードが求められていた。それを打ち破ったスリムクラブが優勝できなかったのは、ちょっぴり悲しい。

ネタ化はお笑い以外にも見られる。ネタかとは要素を取り出すことだ。池上彰のニュース解説もネタ化を利用している。池上彰によるニュース解説は要素を掻い摘んで説明し分かったような気になるから受ける。彼に限らず、世界一受けたい授業などいいところのみを取り出し、分かったような気持ちにさせる解説番組は多い。
ネタ化すると消化しやすい、つまり消費させやすい。ネタ化することで消費している。そして、ネタ化しなければ、あるいはされなければ消費できなくなっている。だから、Togetter - 「ボカロ禁止 から「妹の学校」コピペへ」 では、ネタ化されあっという間に消費されてしまったのだろう。ネタにしなければ消費できないのに、「ネタをネタと(ry」と突っ込むのは粋じゃないなと感じる。

ネタ化の氾濫

ネタの氾濫により分かりやすさが求めれている。実際は、分かりやすさというよりも、要素を掻い摘み分かったような気にさせているだけなのだが。
原発事故に関する説明も分かりやすさが求められている。テレビの解説番組のように、コンパクトで断言される解説が求められている。しかし科学ってのは要素が切り出されたものだ。これ以上コンパクトにまとめ、伝えるのは難しい。
また、微量の放射性物質放射線の影響はよくわかっていない。今後どうなるかをすばり予測できる人はいない。科学者によって予測が異なるのは当たり前のことだ。科学的に誠実であればあるほど、断言はできない。断言してあげること、つまり判断を下してあげることが良いことかと問われるとそれも違うだろう。個々に判断できるのが望ましい。

分からないことは怖い。それは当たり前だ。ややこしい言い回しになるが、人類には早すぎるランキングまとめ ‐ ニコニコ動画(原宿) でも見て、分からないことは分からないと理解することも大切だと理解して欲しい。

ネタは笑っても人は笑うな

嘘を嘘と見抜く必要はないが、嘘かどうか吟味する気持ちは持っておきたい。一方で、ネタをネタと見抜く必要もないし、ネタとして楽しむ必要はない。むしろ、マジレスする位の気概でいたいし、ネタで良かったと思う余裕も欲しい。何でもネタにすればいいってもんじゃないし、ネタにしなければ消費できないってのは粋じゃない。
最後に「ネタは笑っても人は笑うな」という言葉で締めたい。