生物のアミノ酸は左型

左右非対称な分子をキラル分子を呼ぶが、生物を構成するアミノ酸はL 体(左)、糖類はD体(右)に限られており、逆を利用することはほとんど無い。同じアミノ酸や糖であっても左右が異なれば生体内では異なった挙動を示す。例えば、柑橘系に含まれるリモネンはD体は柑橘系の香りであるが、L体では油の臭いがする。味の素として知られるグルタミン酸だが、L体は旨味を感じるが、D体では味がしない。もし仮に、D体のアミノ酸で構成された異星人が地球にやってきて、地球の食べ物を食べても栄養を摂取することはできない。
分子の左右で問題となったのは睡眠薬として用いられたサリドマイドである。R体(右型)のサリドマイドは無害で睡眠薬として使えるが、S体(左型)は催奇性を有している。市販されたサリドマイドは、右と左が混入していた。当時は無害で副作用が少ないと考えられていたため、つわりなどに苦しむ妊婦も服用した。その結果、四肢の発育が不完全な子供が生まれ、社会問題となった。現在では、右と左、どちらか一方のみのサリドマイドを合成できる。ただし、右型のサリドマイドを摂取すれば安全だったかというとそうでもないようで、サリドマイドを摂取すると体内で右型の一部が左型となり、結果左右が混在することになるそうだ。薬品に限らず、食品に利用するには、分子の左右を選択的に作り分けねばならない。その左右の分子の作りわけに貢献したことでノーベル化学賞を受賞したのが、野依良治というわけ。

DL表記とRS表記

分子の左右の記法として、DL表記法とRS表記法がある。DL表記は旋光性に由来する。直線偏光がキラルま分子を通過すると、偏光面が左右どちらかに回転する。条件を一定に保てば常に同じ角度だけ回転することから、糖の濃度測定などに用いられる。この時、右に回転、つまり右旋性を持つ物質はラテン語の dextro-rotatory の頭文字を取り d-、左旋性の場合は levo-rotatory から l- と化合物名の頭につけて区別した。ブドウ糖は右旋性を有するので、dextrose(右旋糖)と呼ばれ、果糖は左旋性を有するので levulose(左旋糖)と呼ばれる。この二つは転化糖とも呼ばれるが、その由来はショ糖が弱い右旋性であり、それを加水分解してられたブドウ糖(弱い右旋性)と果糖(強い左旋性)の混合物が弱い左旋性を示し、旋光性が逆転するからである。この文字の dl は旋光性に基づくが、大文字のDLは旋光性により定義されるわけではない。旋光性の左右は分子の立体配置の左右とは必ずしも一致しない。転化糖の例のように、同じD体の糖であっても旋光の左右は異なる。分子の立体配置、つまり形を元に左右を示したのが、大文字のDL表記である。DL表記では、d-グリセルアルデヒドの立体配置を基準とし、この分子と同じ立体配置ならば、D-(右)とし逆ならL(左)としている。
このDL表記はd-グリセルアルデヒドを基準とするため、様々な分子、特に生体由来ではない化合物に適用するのが難しい。そこでより一般的なRS表記が広く用いられる。RS表記は、カーン・インゴルド・プレローグ順位則 に基づいて立体配置の絶対配置を示す方法。ラテン語で右を意味する rectus と、左の sinister の頭文字からRSが用いられる。
RS表記のほうが一般的であるにもかかわらず、なぜアミノ酸などの生物の用いる分子ではDL表記が未だに使われるのか。その理由はシステインにある。L-アラニンをはじめとして、ほとんどのアミノ酸はS体だが、L-システインは命名法の関係からR体となってしまう。システインのみRとSが逆転するため、L体に統一されているわけだ。ちなみに生体を構成するアミノ酸の中で唯一左右の区別がないのはグリシンである。

D体アミノ酸の利用

生物が利用するのはL体のアミノ酸だけだと考えられてきたが、最近は生体内で作用するD体のアミノ酸に関する研究が注目されている。少量ながら、生体内のL体アミノ酸がD体アミノ酸になることが分かってきた。また、わざわざラセマーゼ(ラセミ化する=左右を逆転させる酵素の意)によりD体のアミノ酸を作っている生物もいる。最初にD体アミノ酸が注目されたのは原核生物の細胞壁である。その理由はL体のアミノ酸から構成された酵素で分解されにくく、つまり身を守るためだと考えられている。身近な例だと、納豆の糸はグルタミン酸がつながったポリグルタミン酸からなるが、D体とL体のどちらも含まれている。これも、細胞壁同様に分解されにくくし身を守るためだと考えられている。細菌によってはL体のみのグルタミン酸から、D対のみグルタミン酸からなる糸を作ることが知られている。強度から考えると、L体のみ、D体のみから構成された方が高いと思われる。例えば、生分解性プラスチックとして知られるポリ乳酸は、DとL体の両方が混在したものより、D体やL体のみのもより結晶性が低い。ただし、D体のみL体のみからなるポリ乳酸を混合すると、らせん構造が上手く噛みあって耐熱性の高い樹脂となる。
一部の粘菌は菌膜と呼ばれる膜を張り、自身が増殖しやすい環境を作っている。しかし、ずっと同じ環境に居続けると養分がなくなってしまうから、いつかは新天地に行かなくてはならない。そのシグナルとしてD体アミノ酸を利用しているとの報告もある。粘菌が代謝を繰り返すうちに、D体アミノ酸が徐々に増加してい行き、ある一定濃度を超えると菌膜を壊すシグナルとして働く。菌膜が壊れることで粘菌はより栄養のある場所を求めることになる。粘菌以外にも、人間を含めた哺乳類もD体アミノ酸を老化のシグナルとして使っているのではないかと考えられている。例えば、眼の水晶体に含まれるアスパラギン酸はL体からD体へと変異しやすく、その変異によりタンパク質の構造に乱れが生じ、それが白内障の一因になっているのではないかと考えられている。またその他、アルツハイマー病などの病気にも関わっている可能性も示唆されている。老化の原因となるD体アミノ酸だが、その一方でD体のセリンは脳において記憶や学習に関わっていたり、D体のアスパラギン酸はホルモン分泌制御を担っていることもわかってきている。今後、D体アミノ酸の研究がより盛んになっていくのではないでしょうか。

シャコは円偏光の夢をみるか

生物がL体のアミノ酸を利用する理由は、何らかの理由で左型であるL体のアミノ酸が多かったためだと考えらているが、なぜ偏ったかは明らかになっていない。ただ、アミノ酸の左右の偏りについては面白い報告がある。南極大陸およびオーストラリアに落下した45億年以上前の6つの隕石を調査すると、隕石に含まれるアミノ酸は圧倒的に左型であるL体が多かったとの報告がある。隕石に含まれるアミノ酸が生物の用いるアミノ酸と同じL体に偏っていることから、地球上のアミノ酸が隕石由来であるとする学説の補強になっていると唱える学者もいる。さて、隕石に含まれるアミノ酸がなぜ左型であるL体に偏っていたのか。アミノ酸を炭素、窒素、水素等から合成すると、右と左がそれぞれ同じ量できて偏ることはない。しかし、光が左右の一方向にねじれた円偏光下で合成を行うと、左右どちらか一方のアミノ酸が多く生成されることが知られている。宇宙では中性子星や星雲が円偏光を照射することが知られている。これらの宇宙における円偏光が、地球におけるアミノ酸の左右を決定した可能性も考えられるだろう。


円偏光とサラッと書いたが、馴染みのない人も多いだろう。正確には電場および磁場が伝播にともなって円を描いた電磁波である。図は、東京理科大学『古江研究室』:円偏光二色性と旋光能 などを参考にしていただきたい。光が右、あるいは左らせんになってると思って頂ければ差し支えない。写真を撮る人などは円偏光フィルターで馴染みがあるかもしれない。主に反射光を除去する目的に使用される。円偏光フィルターを利用すると、反射光は直線偏光であるため、水面、あるいは大気中の水蒸気や微粒子の反射を除去できる。最近では3D映画のメガネに円偏光フィルターが使用されるている。左右の二つの円偏光で右目用と左目用の映像を観客に送ることで立体視できる。左右直線偏光フィルター方式では顔やメガネが傾くと正常に立体視できないが、円偏光フィルター方式ならば顔やメガネが傾いても正常に立体視できる。RealD や MasterImage 3D、Technicolor 3D などが円偏光フィルター方式だが、導入コストが大きい。

この円偏光であるが、タマムシコガネムシの羽が虹色に見える理由に関係している。円偏光フィルターを通してタマムシのきらきらと光る羽を見てみると、左円偏光フィルターでは明るく見えるが、右円偏光フィルタを通すと暗く見える。これは、タマムシの羽が左円偏光を反射するから。タマムシの羽が左円偏光を反射する理由を説明する前に、なぜ虹色に見えるのかを解説しよう。タマムシの羽は色素によって虹色に見えるのではない。タマムシの羽は、光の波長程度の微細な周期構造からなっている。その周期構造に対応する色の光が干渉し、色がついて見える。微細な構造による色という意味で、構造色と呼ばれる。微細構造は異なるが、シャボン玉や油膜が虹色に見えるのと同じ原理である。シャボン玉などは薄膜による干渉で、厚さによって色が異なる。シャボン玉や油膜の厚さが一定ではないため虹色に見える。構造色で有名な生物といえば、モルフォ蝶である。モルフォ蝶は鮮やかな青色をしているが、これは色素ではなく鱗粉表面の微細な格子構造による構造色である。モルフォ蝶と同じ原理で構造色が見られるのがCDやDVDなどの表面で、データを記録しているビットにより虹色に見える。また、オパールの色も規則的に並んだ微小粒子による構造色である。
タマムシコガネムシの羽は光の波長程度の微細な周期構造により虹色に見えるが、一体どのような構造をしているのだろうか。ピンときた人もいるだろうが、左円偏光を反射するのだから、らせん構造をしている。その構造はらせん状にねじれたコレステリック液晶に由来する(コレステリック構造と呼ぶべきか)。らせんは一回転ごとに周期構造を有している。コレステリック液晶の場合は、分子の前後は関係ないので半ピッチが構造色に由来する周期となる。この時、コレステリック液晶はらせんと同じ向きの円偏光のみを反射する。つまり、コレステリック液晶が左巻きならば左円偏光のみを反射する。タマムシの羽は左円偏光を反射するため左巻きのコレステリック液晶からなる構造である。コレステリック液晶はその名の通り、コレステロールに由来する。コレステロールは左右どちらか一方にねじれた、つまりキラルな分子である。化学名を見れば分かるが、コレステロールはR体であるから右型の分子だ。コレステロールから派生した誘導体も同様にキラルな分子である。この分子のねじれがコレステリック液晶のねじれを発生させている。
ちなみに、コレステリック液晶のらせんピッチは温度により容易に変化する。すると、構造色も変化する。これを利用したのが最近は見なくなったが赤から青に色が変わるカード型の温度計である。コレステリック液晶は、らせんの向きが面に対して垂直でなければ円偏光を反射せず、構造色も見られない。コレステリック液晶のらせんの向きを平行と垂直に制御することで、カラーの電子ペーパーとして利用する研究もなされているが、電圧や応答速度、解像度などの点から実用化はまだまだ先か。


タマムシコガネムシのように円偏光を反射する生物がいることはわかっていたが、長らく円偏光を感知できる生物は知られていなかった。円偏光ではなく、直線偏光を知覚できる生物は多い。海鳥の眼には直線偏光フィルターがあり、海面からの反射光を軽減している。これにより、海中の魚を視認しやくすなる。また、直線偏光の変化により太陽の方角や、時間を認知する生物もいる。シャコも直線偏光を知覚できる生物の一つだ。シャコの眼は恐るべき能力を秘めており、8色に対応した錐体を持ち、単眼で立体視が可能である。そんな恐るべきシャコだが、最近円偏光も知覚できることが分かってきた。つまり、シャコは円偏光の左右を区別することが出来るのだ。円偏光を知覚できることが知られているのは今のところシャコだけである。シャコの尾の部分に左右の円偏光を反射する部位があるため、縄張りや性交に関するシグナルを認識するために円偏光利用していると考えられている。円偏光の利点として、砂埃等があっても視認しやすい事が挙げられるが、わざわざ円偏光を知覚する理由についてはよくわかっていない。シャコが円偏光を知覚する事を発見した研究グループは、感覚器を複雑にすることで脳を単純化しているのではないかと考えている。また、シャコの眼を利用した通信デバイスの研究も進められている。たとえば、光ファイバで通信する場合、光の波長によって多くの情報を伝えることができるが、これに円偏光を加えればさらに倍の情報を載せることが可能となる。直線偏光と異なり、検出器の角度のズレを気にする必要がないのが利点である。