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FF13はバルトアンデルスの物語である

FF13のみならず、FFシリーズ及び夢をみる島のネタバレを含みます。
本稿ではFF13がなぜ一本道でチュートリアルが多いのかについて評する。

はじめに大雑把な評

一本道、Rail Playin Game と揶揄されるFF13ですが、一本道であることの理由付けは一応はある。シナリオに関してはセリフ回しなどは小気味よいし、決して悪いとは思わないが何よりも演出が悪すぎる。
その一方で戦闘は面白いと評されている。ゲームなのだからゲーム部分を楽しむのが基本だと僕なんかは思うわけですが。しかしながら、戦闘が面白いと評する人もやはりチュートリアルだらけでパーティー編成などができるようになるまでに時間がかかるのは理解に苦しむというのがほとんどである。
グラフィックは言うまでもなく美麗。しかしながら、人間のモーションに関しては違和感を覚える部分もある。特にスノウにおんぶされたホープが全く動かないのは辟易した。ただ音楽は本当に素晴らしく、フィールド音はずっと流していたいなと思わせるし、戦闘など盛り上がる曲は心が踊る。植松さんではないけれど、FFらしい曲に仕上がっている。さて、FF13ではFF12以上にスタッフが入れ替わってしまった。そんなFF13はFFと言えるのだろうか。

FF13はFFか

FFとは世界とパワーソースをめぐる物語である。5まではクリスタルがパワーソースであり、世界の構造そのものであった。6以降は作品ごとにパワーソースが異なるものの、6, 8, 9, 10と召喚獣が関わることが多い。7は魔晄、12は繭というパワーソースそのものの話であった。9はパワーソースと言うよりも世界の仕組みそのものを知る物語で、それが自分を知ることにもなる。物語を通して自己を再発見することが、7〜10までのFFのテーマでもあった。
FFのラスボスとは世界に成り代わるものである。世界に成り代わり自己破壊を望めばそれが世界の破滅を意味するし、旧来の世界を破壊して成り代わるならば、やはり世界の破滅となる。

ゲームシステムへ視点を移すと常に新しい戦闘システムに挑戦してきたのがFFである。サイドビューでグラフィカルな1。レベルのない2は言うに及ばず。ジョブチェンジの3。アクティブタイムバトルを導入した4。アビリティシステムの5。アビリティシステムを引き継ぎながら、キャラクター性を出すことを目指した6, 7, 9。それぞれのキャラクターが固有アビリティや固有の必殺技を持っていた。不評だけど私は好きな8のジャンクションシステム。戦闘にパズル要素を加味した10。ガンビットとシームレス戦闘の12。FFに通じて言えるのはアクティブ性を追い求めた戦闘だあろう。
そしてFFを語る上で、グラフィックの飽くなき探求という点も外せない。1の頃からサイドビューの戦闘であり、グラフィック重視であったのだろうと思われる。SFCであった4,5,6はシリーズが進むに連れて、ありえない打ち込みのドット絵になっていった。6の擬似3Dの飛空艇にも驚いたが、本当の3DとなったFF7の衝撃は今でも忘れられない。CGの技術はシリーズが進みにつれ進化していった。

FF13は神により作られた機械であるファルシがパワーソースであり、それにまつわる話である。戦闘システムはアクティブタイムバトルを体現したオプティマシステムであり、グラフィックはハイデフである。ストーリー、ゲームシステム、グラフィックのどれをとってもFF13はFFらしい作品であると言える。

FF13のストーリーを大雑把に

FF13を未プレイ者にストーリーを説明するスレ:ハムスター速報 にてストーリーが語られていたが[大体あってる]と思って良い。ストーリーの解釈は色々あるだろうが、ゲームシステムに関わる部分だけかいつまんで説明してみる。

FF13においてよく分からないと言われるのはファルシやルシなどの特殊用語。コクーンやパルス(下界)は世界の名前なのでコレと指し示すことができてわかりやすい。コクーンとはロゴにもなっている人間たちが住む世界でFF7のミッドガルドに似ている。パルスとは下界と字を当てるように、コクーンの下に広がる世界である。一方ファルシやルシは概念であり様々なファルシが存在するので、これがファルシだと指し示して説明するのは難しい。たとえていうならば、ファルシを説明するのは哺乳類とは動物とは何かと説明するようなものだ。
ファルシとは神によって使命を与えられた超存在。従来のシリーズの召喚獣に近いかもしれない。神に与えられた使命とはエネルギーを供給したり、世界をつくりかえたりなど。人間が住むコクーンファルシの場合は人間を保護することがそれにあたる。下界のファルシは地形を変えたり、種を鍛えたりとアグレッシブである。ルシとは、ファルシによって使命を与えられた人間。ファルシが自身の使命を果たすための道具とも言える。ルシは使命を果たせなければシ骸になるし、果たしてもクリスタルとなる。
世界は先述したように、人間の住むコクーンと下界とに分かれ、詳しい経緯は不明だが、コクーンと下界のファルシはそれぞれを敵だと認識している。過去に人間をルシとして互いに戦っていたようだ。大きな戦いだったようで、現在でもコクーンに住む人々は下界を恐ろしいところだろ信じ、下界のファルシやルシを恐れている。

FF13を大雑把に説明すれば、神に見捨てられた(と考えた)コクーンファルシを統べるバルトアンデルスが人間を大量に殺せば神がやってくるのではと考えて一芝居を大きくうった物語。黒幕であるバルトアンデルスが演出した物語とも言える。バルトアンデルスをはじめとするコクーンファルシは、神と再び逢見えるためにコクーンを人間にとって快適な場所にしてその数を増やした。FF13のゲーム開始時には機は熟しており、残るは大量の人間を殺すためにコクーンを破壊するだけなのだが、コクーンファルシは互いに傷つけることができない。恐らくそのように神に作られたのだろう。そこで目をつけたのが敵として戦った下界のファルシ。こっそりと下界のファルシコクーン内部に潜伏させ、時期を見計らって表に出す。下界のファルシコクーンを滅ぼすために適当な人間をルシに選ぶだろう。目論見通りライトニングたちがコクーンを滅ぼす下界のルシとして選ばれた。しかし、直ぐにコクーンを滅ぼせる力を持つわけではない。そこで、ルシ狩りと称して、ルシたちを鍛えながらコクーンを破壊させる方向へとバルトアンデルスが導いていった。

FF13の入れ子構造

FF13のゲーム構造で肝となるのが、永きに渡って生き続けたファルシが自らの死を望み、そのために一計を案じたこと。コクーンを破壊すれば神が舞い降りるかは定かではないが、神の御下に行けるかもしれない。ファルシが自らの死のために、ライトニングや人間たちを道具として使ったことがFF13の根幹。だから、主人公であるライトニングは下界のルシにされた。ライトニングたちがルシ選ばれたのが必然なのか偶然なのかは定かではない。様々な候補生がいて、残ったのがライトニングたちだったのかもしれないし、全て計算づくだったのかもしれない。たとえ上手くいかなくても、ほとぼりが冷めてからルシを選べば良い。ファルシと人間の時間の感覚は全く異なるだろう。


ライトニングたちはルシに選ばれバルトアンデルスに導かれる存在だ。使命を果たすものとして選ばれたことでプレイヤに操作される存在になったと考えることもできる。だからルシとなる以前の物語、つまりゲーム中に「13日間」と表現されるライトニングたちがルシでなかった頃は回想として表現されプレイヤはタッチできない*1
ライトニングたちはプレイヤに操作され、ライトニングとプレイヤはバルトアンデルスに導かれる。つまり操作の入れ子構造になっている。この操作の入れ子構造はFF8におけるラグナにジャンクションするスコールと、スコールを操作するプレイヤの関係や、MGS2における雷電と大佐とプレイヤの関係に似ている。この操作の入れ子構造となったゲームにおける主人公たちの最終的な目標は操作されていることに気がつき、操作されていることから開放されることである。つまり、プレイヤに操作されていることからの開放、プレイヤから見ればゲームをクリアすることで主人公たちから乖離することがゲームのクリアとなる。

ゲームでストーリーを語る利点

ゲームはストーリーを語るのに向いたメディアではない。ストーリー部分とゲーム部分がバラバラにならざるを得ず、どう構成してもテンポが悪くなる。ストーリーをシナリオで語ろうとすると語りすぎでゲームが出来ないし、ゲームに注力するとストーリーを語れないジレンマに陥る。特にストーリーでユーザーを牽引する和製RPGは本来ストーリーを語るのに向いた構造をしていない。マリオならばピーチを助ける、シューティングなら敵をぶっ倒すという単純なストーリーがあればそれでよく、逆にノベルゲームはストーリーを語ることがゲームになっている。RPGはゲーム部分とストーリー部分のバランスを取るのが難しいジャンルである。
それでも、ゲームでストーリーを語る利点はある。それは、ゲームを介すことで、プレイヤに自分自身の物語であると感じさせやすいことだ。ドラクエなどが、しきりに主人公とプレイヤを同調させようとするのはそのためで、主人公=プレイヤならばゲーム部分の行動は自分の意志であり、ストーリーも自分自身が体験した物語だと錯覚しやすくなる。主人公=プレイヤと感じさせる演出は良い演出で、逆に主人公とプレイヤを乖離させる演出は悪い演出と言える。たとえば、ムービーをじっと見ていると、自分は操作できないし、物語が勝手に進むので、プレイヤは主人公との距離を感じるため、ムービーをたくさん挿入するのは良くない演出ある。ムービー中もプレイヤと主人公を同調させようと意識したゲームもある。例えば、メタルギアソリッドでは一人称視点に切り替えができるし、アサシンクリードではムービー中にボタンを押すことで主人公がストーリーを進める行動を起こす。これは主人公の選択をプレイヤが選択させたと感じさせる演出である。先に述べた、ゲームのクリアと世界の演出をリンクさせる方法もプレ板の選択を浮き彫りにする演出である。
ゲームでストーリーを語る場合、操作キャラの下した選択をプレイヤの成したものだと感じさせる、つまり操作キャラとプレイヤを同調させる演出が良い演出と言える。逆に、操作キャラとプレイヤを引き離す演出は悪い演出となる。
さて、FF13の演出は良い演出か、悪い演出か。

世界を破壊するのは操作キャラかプレイヤか

ライトニングたちの使命はコクーンを破壊することだが、それは彼女たちの望む結末ではない。しかし、使命を果たさなければ使命を果たさなければシ骸と呼ばれるクリーチャーになってしまう。使命を果たしても物言わぬクリスタルになるのだが。この二律背反を抱えながら、コクーンの敵である下界のルシとしてライトニングたちは追われることになる。このルシ狩りがこそがルトアンデルスの策略であり、ライトニングたちを鍛える術であった。シドの率いる騎兵隊へ近づけさせるが、これも予定調和。ファルシに支配されない世界を望むとしているシドも実はバルトアンデルスの手駒に過ぎなかった。
一本道と揶揄されるFF13であるが、一本道である理由はバルトアンデルスの掌の上にあるからだ。全てはバルトアンデルスの引いた線路の上である。これを象徴するのが、下界に降り立った11章だろう。直前にバルトアンデルスの掌の上であったことを知ったライトニングたちが、それから逃れるためにコクーンを飛び去ったから、マップが広大になり、ミッションなどの寄り道も増えると解釈できる。結局ライトニングたちはバルトアンデルスの「演出」によりコクーンへ戻ることを決意するので掌の上にすぎなかったのだが。

コクーンを破壊したくないライトニングたちであるのに、コクーンへ舞い戻るのは操作しているプレイヤの選択である。プレイヤはゲームをクリアしたいので、コクーンへと向かわざるえない。つまり、プレイヤに操作される存在となったライトニングたちには決定権などはじめから無かったとも言える。世界の破壊とゲームクリアを結びつける演出だが、通常は設定が逆である。たとえば「夢をみる島」など。夢をみる島をクリアすることは、世界を破壊することである。主人公*2は島から出たい。つまり主人公は世界の破壊者そのものである。その一方でプレイヤは愛着のわいた世界を壊したくない。でも壊さなければゲームはクリアできないという二律背反。結局多くのプレイヤがクリアすることを選ぶ。世界の破壊とクリアをリンクさせることで、プレイヤに自らの意志で決めたのだと感じさせることのできる演出である。いわゆるゲームの終盤にかけクリアしたくなくなるのは、ゲームの世界が終わってしまうのが嫌だとプレイヤが感じるからだろう。このように、世界の終了とゲームのクリアを意識させた作品は印象に残りやすい。
FF13で世界を破壊することとルシから開放されることの二律背反を迫られるのはプレイヤではなくライトニングたちである。プレイヤとしてはゲームをクリアするのが目的である。残念なことに、プレイヤが愛着持てるほどコクーンに関する描写はなされていない。ライトニングたちと関わる人も殆どおらず、ライトニングたちだけ生き残ってもなんとかなりそうな雰囲気である。本来プレイヤがライトニングたちの行き先を決めているにも関わらず、この演出ではプレイヤが決定したと強く感じることができない。つまり、従来のゲームとは操作の入れ子構造が真逆になっており、プレイヤとライトニングたちを乖離させる演出であり、これは悪い演出である。だから多くのプレイヤがストーリーに納得できないんだろう。

ゲームの習熟がライトニングたちの成長につながる

一本道と揶揄されるFF13であるが、ゲームにクリアを設ける以上、一本の筋道を作る必要がある。だから、全てのゲームは一本道であると言える。スーパーマリオブラザーズなどワープはあるものの、一本道だ。しかしスーパーマリオブラザーズは一本道だと批判されず、FF13は一本道だと批判される。
あたかも自分で筋道を見つけたかのように感じさせるゲームが良いゲームとされる。プレイヤに気付かれない示唆で導いていくのが良いゲームである。とはいうものの、万人をそのように導くのは難しいのでヒントを提示することもある。WiiNEWスーパーマリオブラザーズではルイージがお手本を示すヘルプがある。
一本道だと揶揄されるゲームの多くは、ヒントを通り超えて答えを提示していることがほとんだ。アサアシンクリード1はGPS機能が高度すぎて地図上に暗殺対象が何処にいるか一目瞭然、つまり答えが提示されていたので自分でみつけるというゲーム性を損なっていた。2ではその点が是正され、暗殺対象のいるエリアのみが表示されヒント程度に留められている。FF13が一本道だと批判される理由は、チュートリアルで説明しすぎていること。何から何まで手取り足取り教えて貰うのは面白いものではない。かといって、FF13の場合チュートリアルをしっかり受けないとクリアが儘ならないからだ。
FF13の戦闘は非常に複雑である。戦闘画面にある情報量が多すぎるのだ。先ず、パーティーのHP。次に敵の構成。この時効率的に倒す順番を考えなければ全滅することになる。敵を効率良く倒すためには、ブレイク値なるものを溜めれば良いのだが、すると常時パーティーのHPと敵のHPとブレイク値のバーを観察しなければならない。中々骨が折れる。さらに状態異常も加わると大変。自身のHPや敵のHPにブレイク値に気を配ってオプティマを変化させねばならず、歯ごたえがありパズル要素も加味されるので楽しくはあるのだが大変つかれる。だから、FF13のダンジョンが一本道なのはそれでいいと思う。戦闘も複雑でダンジョンも複雑だと頭を切り替えるのが大変だろう。
また、FF13のレベルはイベントを先に進めないと一定以上上げることができない仕組みになっている。つまり、序盤でレベル99みたいなことはできない。レベルが一定値しか上がらないので、ボスが雑魚に成り下がるということがあまりない。また、ボスに勝てないのはレベルが足りないのではなく自分の作戦が間違っているわけで、ゲーム性が高い。その一方で、レベルさえ上げれば誰にでもクリアできるゲームというわけでもない。だからこそ、戦闘で負けても直前でプレイできるようになっているし、チュートリアルで詳細に戦闘方法について解説しているのだろう。

ライトニングたちは最初「たたかう」ことしかできない。それがルシになったことで魔法を使えるようになる。これは、ルシの使命を果たすために力を与えられたと考えればよいのだろう。そして、ゲームを進めるに連つれオプティマによる作戦やパーティーの変更とより複雑なことが出来るようになっていく。オプティマなど出来ることが徐々に増えていくのは、ライトニングたちの成長を反映しているのだろう。そしてライトニングたちが成長しゲームが複雑になっていく様はプレイヤの習熟度にシンクロする。チュートリアルで解説することで、プレイヤ自信が成長し、そしてそれがライトニングたちの成長にもつながっていく。バルトアンデルスが望んだように。
レベルが一定以上上げられないことで戦略や戦術性が重要となってくる。つまり、プレイヤ自身が成長しなければゲームをクリアすることはできない。チュートリアルが説明しすぎている点を除けばプレイヤ自身の成長がライトニングたちの成長へもつながっている良い演出である。だから多くのプレイヤが戦闘は面白いと評するのではないだろうか。

何故ルシなのか

ライトニングたちはルシとなったことでプレイヤに操作される存在となり、また戦闘的にも成長できる存在となった。つまり、ルシがFF13を語る上でのキーワードなのだが、ライトニングたちがルシになった理由は他にもある。

FF13が一本道と批判されるのは、従来のように世界に点在する街から街へ移動できないことにも起因する。しかし、従来のような世界中を旅して街を巡るRPGを作るのは難しくなっている。なぜなら画像が綺麗であるが故に、世界観を作り込む工程がかかりすぎるから。従来のように、砂漠あり、雪国あり、海辺あり、森ありというわけにはいかないだろう。FF13が一本道なのは、単純に従来の街などの見せ方をHD機でやるのは作業量的に無理だったから : はちま起稿 によるとファイナルファンタジーXIII シナリオアルティマニアに作業量的に厳しかったことが記されている。
PS3のスペックで街を作り込む場合、GTAアサシンクリード龍が如くのような箱庭を作らなければプレイヤは納得できないであろう。GTAなどは街そのものがフィールドであり、街の中でイベントが発生し、街の中を巡ることがゲームの根幹である。だから、街を作りこめばこむほどゲームとしての面白さも上昇していく。一方FF13は地点から地点へ移動するゲームである。街の中を巡ること楽しむゲームではない。よって、街を作り込むのは得策ではない。だから、コクーンと下界という狭い世界にしたのだろう。この方針は間違っていない。世界を狭くすれば、その世界を濃密に形作ることができる。従来のようなフィールド移動を楽しみたければ次回作でオンラインのFF14を楽しんでくれということだろうか。また、できれば一般人と関わり合いになってもらいたくもない。コクーンのように数千万人が住む世界を表現するのは、たくさんのモブが必要になるだろう。そこでルシの利用である。下界のルシはコクーンの人々に畏怖される存在だ。つまり、ルシになればコクーンの人々との関わりが最小限に抑えられる。ゲーム中で関わる人は争乱から逃げ惑う人たちくらいで、ライトニングたちを気にもとめない。歓楽都市ノーチラスもいわゆるテーマパークであるから、自分たち以外の人間に興味がある人はそうそういないだろう。

ライトニングたちをルシにしたことで、プレイヤに操作される存在にすることができ、魔法などを駆使して複雑な戦闘をこなせるようになり、さらに人々と関わり合いになる必要がなくなった。だから、FF13はこれほどまでにルシにこだわるのだろう。
その一方で、ルシにしたことによる弊害も存在する。その一つ前述した通りルシの使命によるプレイヤの乖離、もう一つがが「13日間」の回想である。ライトニングたちがパーティーとして集まるべくして集まったと感じさせる演出であるが、操作できない回想が延々と続くのでプレイヤと乖離を促している。「13日間」の回想により、ライトニングたちの物語であって、プレイヤの物語ではないことが強調されている。だからと言って、この13日間をプレイヤが操作するわけにはいかない。何故ならこの時ライトニングたちはルシではなかったのだから。

世界を理解できないFF13

選ばれ操作される存在としてのルシは決して悪い仕組みではない。決定権がプレイヤに無いのは残念だが、それすらもバルトアンデルスの掌の上だったのだと説明することは可能である。プレイヤとライトニングたちを引き離す「13日間」の回想も形を変えればもっと良くなる可能性がある。結局プレイヤが納得していないのは、世界が理解出来ないからである。世界を理解出来ない理由は大きく分けて二つあり、一つが固有名詞の連発であり、もう一つがコクーンの構造を把握できないことになる。先ずは、固有名詞の連発について解説して行きたい。

固有名詞連発によるライトニングたちとプレイヤの乖離

特殊な用語や固有名詞の使用は世界観を表現する上で効果的である。しかしながら乱用すると、キャラクターが何をしゃべっているのかわからなくなってしまう諸刃の剣でもある。後者がまさにFF13。「パルスのルシはコクーンの敵。だから、パルスのファルシと接触した人はパージしなければならない」などというセリフは何の冗談なのかと。

聖府やシ骸などは当て字なので理解もしやすい。シ骸は言葉が登場した後に、具体的な人型のクリーチャーが映し出され「ルシの成れの果てだ」と説明されるからすぐに頭に入ってくる。一方、ファルシだのルシだの言われてもさっぱりわからない。何故ならファルシやルシは概念だから。聖府も同じく概念であるが、我々は政府という言葉を知っているので、それに置き換えて理解できる。もし聖府は他の言葉であっても意味を取ることは可能だっただろう。セントメントなどの横文字であっても、劇中のセリフなどで政府的なものだと置換可能である。一方ファルシやルシにはFF13特有の概念であり置換できない。何か他のものに置き換えることのできない概念を説明することは難しい。たとえばインターネットがなかった時代にインターネットについて説明するのは難しいだろう。インターネットが広まった現在でも、電子メールやウェブサイトなどインターネットを利用した実例は簡単に理解できるが、インターネットという概念を理解するのは簡単ではない。また、サービスなども体験してみないと実感できない。Twitter などは言葉で説明できるけれども実際に体験してみなければ分からない部分が多い。
FF13では序盤に下界のファルシが映し出されるが、どのような存在なのかは良く分からない。コクーンの敵方として描かれるので、ファルシとは悪いヤツなのかなと思っていると、コクーン側にもいるらしいと分かり混乱する。ファルシが分からないままにルシにされ「下界のルシはコクーンの敵」と言われる始末である。製作者が理解させるつもりが無いのか、プレイヤは何一つ理解できないまま物語は進行する。ライトニングたちは言葉を理解し互いにコミュニケーションをとっている。プレイヤとライトニングたちは切り離れる一方である。
異世界に迷い込むタイプの物語ならば、意味の分からない言葉があっても主人公も同様に理解出来ないので、それが却ってプレイヤと主人公を同調させる。FFならば10であり、ティーダはユウナたちの世界に迷い込み、初めての体験ばかりだがそれはプレイヤも同じことである。FF13もプレイを進めればファルシやルシについても分かってくるのだが、序盤で理解出来ないままそれらの言葉が連発され、さらにライトニングたち同士には意味が通じておりプレイヤはより一層疎外感を覚え全く物語に入っていけない。世界観を出すための言葉なのかもしれないが、それが物語導入への障壁となっている。なんともチグハグな演出である。

コクーンの構造が把握できないことでの閉塞感

コクーンの構造が把握できない、つまり世界の構造を把握できないのも物語の理解を狭めている。コクーン内部に人がどのように住み、何処に聖府の中枢があるのか全然分からない。ライトニングたちは主にコクーン内部を逃げまわるが、一体何処を移動しているのかさっぱり分からないのだ。プレイヤはコクーンにどんな人々が住み、どのような生活を送っているのか実感がわかない。だからコクーンに愛着をもてない。しかし、ライトニングたちはコクーンを守りたいという。またしても、プレイヤと操作キャラの乖離が生じている。
ファンタジーでリアリティを持たせるには世界観を作り込むしかない。ゲームならば移動できる部分を作りこまなければならない。FF13は工程の問題から従来のRPGのような世界を作れない。そこで、コクーンと下界という二つの世界にしたのだろう。この目論みは半分は成功していて、下界の全てなど到底映し出すことはできないのだが、閉ざされた世界であるコクーンとの対比により非常に広大に感じられる。しかし、下界の緻密な描写に対してコクーンの描写はおざなりと言わざるを得ない。フィールドを作っていたら幾ら時間があっても足りないので、箱庭たるコクーンを舞台にしたのだろう。旧来のシリーズで説明するならば、コクーンFF7のミッドガルドを目指したのではないだろうか。
FF7は、オープニングでクラウドたちがテロ活動を行うことでミッドガルドの構造を把握できるようになっている。街を破壊するのだから、街の構造を知らなければならないし、それを説明することは何ら不自然ではない。さらに世界そのものである魔晄についての説明が自然となされる。テロ実行直後にアジトへ戻ることで、上層部と下層部の構造と繋がりが分かるようになっている。一方でFF13ではコクーンのどの辺を移動しているのかさっぱり分からない。一応の説明はなされるが、コクーンの内部構造を知っていることが前提の説明である。これでは一本道以前の問題である。プレイヤは何処にいるかも分からないし、何処へ向かっているのかも分からない。つまり道が分からないのだ。ライトニングたちは何処にいて何処へ向かっているのか把握しているものの、彼女たちを操作するプレイヤはさっぱりそれが分からない。ここでもまた、操作キャラとプレイヤの乖離が見られる。
ダンジョンの構造が一本道になっていることも世界への理解を妨げている。一本道を進むだけなので、プレイヤはダンジョンの、つまり世界の形を意識する必要がない。さらに、FF13では一度辿った足跡をもう一度辿ることがないし、できない。唯一自由に行き来できるのはコクーンではなく下界である。ミッションも多く同じところを行ったり来たりするので、下界の構造を覚えていく愛着が湧いてくる。だがコクーンを知ることはできない。守るべきコクーンの構造は分からないのに、下界の構造ばかり覚えていく。下界はバルトアンデルスの掌の上から逃れた象徴だが、下界の構造が詳しく描かれるほどコクーンの構造の描かれなさが際立っている。やはりコクーンの描写が不足しているのである。

独りよがりな製作者

固有名詞の連発にしても、コクーンの全景を把握できないことにしても、共に製作者がFF13の世界を説明する気が無いことの表れだろう。製作者の頭の中には完全なるFF13があるのだろうが、それを表現しきれていない。表現する力が無いのではなく、表現する気が無いように感じる。「カッコイイ物語だろ」というような独りよがりな雰囲気も感じる。特に、独りよがりだと感じたのは召喚獣で、その存在意義がほとんどないのである。
ルシとしての迷いが召喚獣として具現化し、それに打ち勝つことで確固たる意思を持つという演出は面白い。特にオーディンのイベントはライトニングの心の変化が見て取れ、召喚獣を打ち負かした後の姿は迷いの無い凛々しいものであった。しかしながら、他のキャラクターに関しては脈絡がなく、喚獣が出現する理由付けが無理やりである。また、召喚獣が乗り物に変形する意味が全く持ってない。12章で何故かライトニングたちがレース会場へ突入する。その際に乗り物に変形するギミックが使われ、最後はオーディンに乗ったライトニングが戦闘に突入する。しかしこれは召喚獣が乗り物に変形するから用意されたイベントであり、召喚獣が乗り物に変形する理由付けにはならない。「FF13召喚獣は乗り物に変形します!」と意気揚々に発表していたが、何の意味もないギミックであった。そもそも、アダマンタイマイ狩り以外に召喚獣を使う機会すらないってのはどうなんだろうか。遊びを全く入れるなということではない。物語をきちんと描写しているならば召喚獣が乗り物に変形したって構わないのである。しかし、肝心の物語が理解できなければ、召喚獣のギミックを考えている暇があるなら他の工程に時間をかけろと。
カメラワークも意味の取れない絵が多い。なぜそこから映すのか、なぜそれを映す必要があるのか分からない。先程のレース場に召喚獣で突入するシーンでは、何が起こっているのかイマイチよく分からない。アップが多くキャラクターの表情や召喚獣のディティールは鮮明だが、その代わり全体として何が起こっているのか掴めない構成になっている。動きのあるシーンでは、アップにしすぎてカメラワークがそれに追随し非常に速く動くので、最早何が起こっているのか負うことができない。3DCGなのにで、実写では不可能な場所にカメラを置いたり、カメラワークを探求するのは面白いのだが、如何せんそれが分かりやすい絵につながっていないことにやはり独りよがりを感じる。
物語、特にファンタジーでは世界を描写することで作品へ引き込んでいく。リアリティ、つまり有り得そうだなと思わせる世界ほど入っていきやすいだろう。例えばガンダムの第一話は物語に入っていきやすく、さらに世界観も理解しやすい演出になっている。コロニーなんてSF好きなら誰もが知っている概念だけれども、きちんと外観と内景を映し出しコロニーを具体的に描写している。しかもそれを、連邦の新兵器を偵察するためザクで侵入するというシチュエーションで成し遂げている。ザクを出すことでMSとは何か、ザクとガンダムを対峙させガンダムの性能を、アムロたちが避難することで、戦時中であることの緊張感も伝わる。ザクがコロニーに侵入しガンダムを偵察するというシナリオで物語の導入と世界観をまとめて描写してしまっている。
まぁ別にガンダム程の演出は求めていないわけだが、それにしてもFF13はひどい。初っ端から固有名詞を連発し、しかもその固有名詞がプレイヤには理解できないため物語に入っていけない。物語の舞台であるコクーンも一体どのような構造になっているのか最後までプレイしてもさっぱり分からない。物語にしてもバルトアンデルスの独りよがりである。バルトアンデルスゲームマスターであり、それ即ちゲーム製作者であると考えれば、まさにFF13の象徴と言えるかもしれない。つまるところ、FF13バルトアンデルスの物語であったと。彼が主人公だと考えると、何もかも説明がつく。ただし、デスノートのキラこと夜神月のように独りよがりで討ち滅ぼされなければならない主人公であるけれども。なるほどセフィロスに近いのかもしれない。ミッドガルドとコクーンバルトアンデルスセフィロスという関係を見るに、FF7の焼き直しを狙って失敗したのがFF13なのかもしれない。

まとめ

  • 良かった点
    1. 音楽
      • 音楽が一番良かったと感じる。サントラを聞いていても飽きない。
    2. グラフィック
      • 時間をかけたことだけのことはある。
      • ただし人間のモーションに違和感がある。
    3. 戦闘
      • 複雑ではあるが、ゲーム性が高い。プレイヤの習熟度がライトニングたちの成長と同調している。
      • ただし、情報量が多すぎるのと戦闘に戦略を盛り込めるのがゲーム開始から20時間と随分長い。
  • 悪かった点
    1. 固有名詞が理解できない
      • 固有名詞が理解出来ないので物語に入っていけない。
      • ライトニングたちは理解しているため、プレイヤは疎外感を覚える。
    2. 世界構造を把握できない
      • 世界構造を把握できないので、旅の行程が分からない。
      • コクーンに愛着を持てないプレイヤの中に守る理由が見つからない。
  • 工夫次第ではより良いものになったと感じた点
    1. ルシに選ばれたことや一本道である理由付け
      • ルシ=プレイヤに操作される存在。また、ルシにすることでその他大勢と関わる必要がなくなった。また人の力を超えて成長する理由にもなる。一応EDの説明付にもなっている。
      • ただし、「13日間」の回想がプレイヤとライトニングたちを引き離す。さらに、プレイヤの選択とライトニングたちの選択がシンクロしない。
      • 前半にバルトアンデルスが直接手を下す伏線が少ないので掌であることの理由付けが薄い。

蛇足

FF13が不味い理由は説明不足だからだ。特にコクーンの説明が足りない。コクーンについて詳しくないヴァニラやファング視点にすれば、コクーン関する説明があっても何ら違和感はない。その一方で、彼女たちはルシとしての運命を知りすぎている。そして何より、ヴァニラたちを中心に据えると、エンディングが浮かばれない。ファングを男にして、ヴァニラが大切な人であることのみを記憶し、ヴァニラを守ることに主眼をおいたシナリオも考えられる。記憶が戻るに連れ自分自身を、そしてルシの使命を知ることになり、プレイヤともシンクロしやすい構造だ。良さそうなシナリオにも見えるが、自己の再発見であるFF9と自己の決断が自己の消失へとつながるFF10の焼き直しに過ぎない。
バルトアンデルスの掌であることをより直接的に示す方法としては、内通者をパーティー内に潜ませる手もあるだろう。ザッズの子どもが人質に取られていて渋々という展開はありだったのではないか。あるいはシドを仲間にする方法もあっただろうか。しかし、途中で操作できなくなるキャラクターが出てくるのはゲームのシステム上批判される可能性もある。
まぁ所詮は if の話である。私個人としては、「ルシ」をもっと利用できれば怪作に化ける可能性もあったのに世界を説明できないなばかりに凡作になってしまっているのが非常に残念だなと感じた。逆にもっと突き抜けるくらいでも良かったんじゃないかなとも。

*1:一部スノウのシナリオで例外もあるが、これは夢の中で思い出しているような演出か

*2:本作ではリンクと明言されていない