アバターに見るゲームとプレイヤの関係

先日、アカデミー賞にノミネートされたアバターを見てきました。昼過ぎの回だったのもあるのでしょうが、ほぼ満席でした。アバター恐るべし。3Dに関しては、最初こそ感動と言うか、予告編の アリス・イン・ワンダーランド の方がビックリしたかも。ストーリーに関しては、『アバター』。 - Something Orange でも語られているように、現星人がインディアンで、地球人は騎兵隊といたってシンプル。細かな設定や若干ご都合主義かなとも思いますが、その辺映画なので。ただ、映像の演出はすばらしいなと。前半に登場した、何気ない普段の生活を思わせる映像が、後に出てくるシーンの説明になっていたりと、例えば現星人が高いところから飛び降りる際に、森の葉っぱをクッション代わりにするシーンとか。個人的に感動したのは、主人公が最初にアバターにリンクした際に、スタッフが周囲で作業をしつつ、ゆっくりと目覚めるのと同じ演出があるシーンの異なるシチュエーションで二、三回使われた所。主人公の行く末を暗示する上でもとても大事な演出だよなと。

映画アバターにおいて、主人公は現星人と亡くなった双子の兄のDNAを掛け合わせて作られたアバターとリンクすることで、現星人と溶け込んでいく。主人公は装置を介してアバターとリンクするわけだが、この構造をゲームに持ってきたら大変面白いなと感じた。主人公の祖先の記憶とリンクするアサシン・クリードや、ラグナという過去の人間にジャンクションするFF8も似た構造なのだが、アバターはそれらよりもダイレクトにリンクし操作している構造だ。アバターの主人公は、格好こそ現星人であるが現星人のことは何も知らない。主人公は作中で現星人の言葉や生き方、文化を学んで徐々に成長していくのだが、それはまさにゲーム的な成長で、見ながらこれがゲームだったならば!と思ったほどでした。
ゲームならば、クリアの後には主人公と操作キャラのリンクは離れるわけですが、アバターの場合主人公にとっては現実ですから、その辺どうするなるかは見てのお楽しみ。ゲームならば分岐エンディングとかアリかもしれません。