コミュニケーションだって一部からしか始まらない

ブログもネットも人間が発言するものだから、その人が全体としてどういう活動をしていて、その中でどういう発言をしているのか

恣意的に抜き出して申し訳ないが、全体を把握するのは難しいと思うな。だからこそ「浅く広くよりも、狭く深い方が自分は好き」という発言が続くのだろうけど。
記事を読むか人を読むかについては、著者で読むか、内容で読むか にも書いたけど最終的には内容じゃないかな。どんなに好きな漫画家でも、内容が面白くなければ切る。そもそも、読み始めるきっかけって人じゃなく内容でしかない。最初は小さな接点だったが、漫画家の感性が合えばそこから接点が大きくなっていくのを感じるだろう。
記事から入るってのはコミュニケーションでも同じだと思う。自分の知人やネットで知り合った人との交流の場としてサイトを運営しており、新たなる交流も見つけたいと思っている場合。この時、人となりを見て欲しいから記事単体で自身を判断して欲しくない、と言うのは確かに分かる。記事はその人の一部でしかなく全体では無いからだ。しかし、一見さんがそのサイトの人と交流しようかどうか判断する基準は記事単体からだ。ネット巡回中に趣味の合いそうな人を見つけ、どういう人なのかを見極めるためには、最近の日記なりエントリを読んで判断するしかない。はっきり言って全体を見通すの大変だ。これはネット以外でも同じ事。初めて出合った人との接点は非常に小さい。会社なら会社、サークルならサークルだけという繋がりでしかない。そこから徐々に趣味が同じだったり、似たような嗜好だったりという事が分かってきて交流が深まる。相手の知らなかった一面を知っていくのも楽しみの一つだろう。
サイトには、その人がこれまでネットで活動した事が記録として残っている。サイト全体を見れば、どのような活動をして、どんな発言をしたかを知ることはできる。「本人のこれまでの軌跡」がネット以外と大きく異なる点であり、ネットの面白味である。とは言うものの、それも自身の一部でしかないわけで、とても全体とは言えないだろう。
まぁ、だから実際に会って話そうってことなんだろうけども。はてなユーザー全体が記事単体の情報だけしか求めてないってことは無いだろう。はてな疲れ とコミュニケーションしすぎて気疲れしてる人もいるし。所謂クネクネ。しかし、はてなってクネクネするなとか、はてな村うぜー、けまらしい!と馴れ合いを否定される反面、はてブ怖い、モヒカン怖いみたいな馴れ合い否定怖いみたいな面もあるね。はてなにいるけどよく分からん。