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ネタ化するセカイ

ネタとは元々、種(タネ)をひっくり返した隠語。具体的には、文章などの材料、食材、証拠、仕掛けなどを指す。隠語だから、特定の業種で使われていた言葉が一般に広まったのだろうが、その業種が何かは分からない。「話の種」とも言うくらいだkら、噺家さん関係なのであろうが。

「ネタ」は仕込むもの

食材という意味での「ネタ」といえば主に寿司ネタだろう。特に、握り寿司の寿司ネタは豊富である。握り寿司において、その握り方に目が行きがちだが、職人は握り寿司をただ魚をさばいて握っている訳ではない。寿司ネタは職人による丁寧な仕込みが施されている。特に、煮ても焼いても水っぽいコハダは仕込みに手間がかかり職人泣かせ。コハダで寿司職人の技量が分かるとも言われる程だ。ネタを仕込むことで美味しさを引き立てる。まさに、職人の腕の見せ所である。寿司ネタの仕込とは味の演出である。

噺家や芸人での「ネタ」といえば持つものである。必ず笑いが取れる「ネタ」を「手堅い」=かたいということから鉄板とも言う。お笑いでの「ネタ」はアドリブではなくて前もって仕込んでいたモノだ。フリートークは「ネタ」ではないが、フリートークのようにさもできましたよ風に見せる漫才は台本があり仕込まれているので「ネタ」だ。ネタ - Wikipedia によると、「作り手の明解な意図の存在」「事前の準備」「繰り返しの使用」がネタの要件であるという考察がある。つまり、笑いに演出を加えておいた話が「ネタ」である。これは、我々が日常で用いる「話の種」も同様。飲み会前に「話の種」を仕込む人は多いのではないか。

「種も仕掛けもございません」というが、手品も種を仕込まなくてはならない。寿司ネタにしても「話の種」にしても仕込むものだ。つまり「ネタ」は仕込むものである。さて、「話の種」はどのようにして仕込まれるのか。

話のネタ化=仕込み

我々は日常会話は全てが仕込まれた「ネタ」ではない。多くは、そういえば…で始まる唐突に語られる思い出話であろう。思い出話を語るときは、思い出しながら喋るため話の順序が定まらない。基本的には時系列で語られるが、新たな人物が登場する度に説明が付加され、話し忘れていたことがあったため過去に戻ったり、逆に関係ないことを詳しく話したり。要するに、話が洗練されていないため、要領を得なことが殆どでよっぽど面白くない限り感想は「ふーん」である。
しかし、同じ思い出話を何度も話すと段々と小慣れてくる。話の筋道がはっきりして、無駄な部分は削ぎ落とされ、必要な部分が肉付けされ、落ちもしっかりとつく。この時「話」のストックができたといえる。つまり「話の種」ができた=話がネタとして仕込まれたのである。話し上手な人とはネタの仕込が上手い人である。彼らは始めて話すハナシであっても十分に面白い話ができる。人志松本のすべらない話は話し上手の集まりである。一応彼らの体験に基いた話であるが、嘘か真かは重要ではない。重要なのはすべらないこと、つまり面白いことである。ネタ化したものに求められるのは、嘘か真かではなく面白いか否かなのである。
桃太郎は吉備津彦であるといわれるが、桃太郎という御伽噺の面白さに吉備津彦は関係が無い。様々な伝承が混合し脚色されたものが桃太郎という作品である。この時、元となった吉備津彦の話は重要ではない。桃太郎が語り継がれた理由は面白いからである。
たとえば、ダチョウ倶楽部の熱湯風呂芸なども、元はアドリブだったものが少しづつ洗練されて現在では一つの「ネタ」となっている。そして、熱湯でないことは周知の事実である。はっきり言えば「嘘」である。しかし、「ネタ」として面白いから求められるのである。

ネタ化が進み「型」となる

ネタ化するとは、ある原型に演出を施して一つの作品を作り上げることだ。ネタ化を率先して進めた一つの例が落語であろうか。落語、特に古典落語はある話の「原型」があったものが、一つの作品として完成したものである。噺の原型は本当の話を元にしている場合もあれば、創作の場合もあろう。話の本当っぽさ=リアリティも重要であるが、最終的に生き残る噺は客に受けた作品、つまり面白い噺であろう。
落語には新作落語もある。新作落語の中には、落語以外の他分野作品を翻訳(正しくは翻案)したものがある。これは、逆もしかりである。元々落語だったものが演劇等翻訳される場合だってある。このような他分野のネタの翻訳は相互に行われているが、ネタの翻訳は何故可能なのか。
「話」というのは洗練されていく度に様々なものがぼやけてくる。先の桃太郎も、様々な伝承を元に構成されているが、現在一般的といわれる桃太郎にその片鱗がほのかに見えるくらいである。同じ御伽噺としてシンデレラがある。シンデレラはグリム兄弟が様々な民話を元に編纂した童話である。現在一般的なシンデレラはシャルル・ペローが改変したものであるが。シンデレラのように貧しい生活から一転して成功を掴む話をシンデレラ・ストーリーという。これは、シンデレラが広く一般に知られた話であるから通じる言葉である。シンデレラ・ストーリーは、童話のシンデレラと流れが合致した、つまりシンデレラのストーリーと大枠の「型」が嵌ったからそう呼ばれるのである。このように、皆が知っている話には話の「型」がある。これは桃太郎も同じ。話の「型」があるからこそ、他分野間の翻訳が可能なのである。
話は洗練されることでネタとなる。ネタ化が進むと話の「型」のみが取り出される。ネタ化とは文化の成熟する過程とも言えるだろう。

ネタ化する世界

話のネタ化において重要なのは、嘘か真かではなく面白さである。嘘であっても面白ければネタとしては正しい。そうでなければ、フィクションなど認められない。確かに、本当っぽさ=リアリティがフィクションの面白さの担保ではあるが、リアリティとは何だろう。たとえ、嘘をついても作中で読者を説得できればその作品はリアリティがあると評されるように、リアリティとは説得力である。時には、読者を説得するために敢えて嘘をつく場合だってある。作品にリアリティを持たせるために上手に嘘とつき合う 必要がある。

嘘か真かがポイントではなく、面白いか否かが大切という意味で電車男はネタ化されているといえるだろう。電車男は嘘、2ちゃんねるのでいう所の「釣り」であっても話として面白い。つまり、「ネタ」として面白い。この面白さは、電車男2ちゃんねるに書き込まれ、リアルタイムに電車男と出会えた可能性があったことが担保となっている。この担保なくして、つまり電車男2ちゃんねるに書き込まれることなく同じ話がドラマ化、映画化されても陳腐な物語にしかならない。また、リアルタイムに電車男と出会えた可能性を理解できない人にとっても陳腐な物語にしか思えない。実はこれは、ネットでケータイ小説が叩かれる構図と良く似ている。
ケータイ小説が叩かれる理由はリアリティが無いからだ。しかし、ケータイ小説にリアルを感じる 彼女たちがリアルっていうんなら、ケータイ小説はリアルなんだよ

ケータイ小説では、「リアル」を担保するのは、「リアル」な人間関係であり、その延長線上に、「友達の友達の友達の友達……」の先に、その物語がある「かのように」見せかけることが眼目になる。「ゴシップ」そのものに関与するかは問題ではないように、ケータイ小説の物語に関与するかはどうでもよい。だからメール文体という形式は維持するとしても、メールログという形式までは必要とされない。どこかでは起っていて、自分には関係ないが、友達の友達の友達の友達を介して繋がっているかのような物語、これがケータイ小説の「リアル」である。

ネタ化されたリアルを担保にしているという意味で、ケータイ小説も2ちゃんねる文学も同じじゃん

世界は既にネタ化している

この記事は、萌え文化よ、さようなら。 に違和感を覚えたので書いた記事である。現在「萌え」は、抽出された「属性」を再構築して消費され続けている。これの繰り返されると「萌え」が消費されつくされる日が来るかもしれない。
元々、オタクの感情を説明するために「萌え」という言葉が作られた。言葉が作られることで「萌え」が可視化された。次に、なぜ、どうして「萌え」るのかが探求され「属性」が見出される。見出された「属性」を組み合わせることで新たなる「萌え」を消費する。この「属性」を見つけることは、「萌え」の「型」を作り出すことに他ならない。つまり、「型」を見つけることで作品に「萌え」を仕込むことができる。だから、「萌え」も「ネタ」の一つである。
以上の点で、
その点で 萌え文化よ、さようなら。 は同意できる。しかし、『こんにちは、「ネタ」文化』には同意できない。そもそも、この世は元々ネタ化した世界である。ネタ化することが文化である。それは、大昔から行われてきたのではないか。人は小説は小説として、テレビドラマはテレビドラマとして、アニメはアニメ、ゲームはゲームとして、そしてネタはネタとして楽しむのだ。ネタだと認識しているから楽しめるのだ。
実話が後世に伝わるのは、実話とした方が面白いから後世に広まるのだ。実話だから広まるのではない。広まると伝わるは別もの。多くの人が知る偉人の逸話が実は嘘だったということは良くあること。つまり、ネタのみが後世に広まるのだ、また、ネタ化とは文化の成熟する過程であるから、「ネタ」文化ってのはおかしい。面白いものはネタ化の流れに乗る。ネタ化の流れに乗るには面白くすれば良い。勿論、普遍的な面白さもあれば時代と共に変る面白さもある。そのため、時代が巡って発掘されるネタというのもある。
面白さを追い求めるなら、この世は既にネタ化されたセカイだ。