「なぜ人を殺してはいけないのか?」から、リンクをしても良い理由を導く。

本エントリを書くにあたって

ある人が、なぜ人を殺してはいけないのか? を元に無断リンクはある「不可逆性」を生じるので、その点では殺人と同じであると説かれました。
しかし、僕にはどうにも納得できません。確かに、リンクにより「不可逆性」は発生するけども、それはWWWに公開した時点で考えられる事態であり、そもそもの責任は誰にあるのか。「無断リンク禁止」を認めればそれこそ、「無断アクセス禁止」、「無断クリック禁止」が認められるのではないか。例えば、「無断リンク禁止」のサイトにリンクしたけど、リンクした本人の承諾なしに、つまり「無断アクセス」あるいは「無断クリック」を禁止してしまえば「リンク」により生じる「不可逆性」の責任は、リンク先にアクセスした人に生じるのだろうか?多分そんなことは無いと思う。「不可逆性」に端を発して議論を進めるのは本当に得策なのだろうか?
つまり、「無断リンク禁止」という発言を認めちゃうと、責任転嫁のらせんに落ち込むんじゃなかろうかというのが僕の疑問点であります。
本エントリは、「なぜ人を殺してはいけないのか?」から、リンクをしても良い理由を導けるのではないかという試みです。

「ウェブそもそも論」が難航中

ちなみに、妄想日記くっぱのブログ でウェブそもそも論が繰り返されてますが中々終る気配が見えません。


以下は、法律の専門家というわけではないので、細かい所に間違いがあるでしょう。ただ、以下のように考えることもできることもできるのではないか、というある一つの提示と受け止めていただくと幸いです。

どうして、人の物を取ってはいけないのか

先ず「人殺し」を考える前に「奪う」ことを考えてみる。
倫理的に、あるいは法律でそう決まっているからというのも一つの答え。自分がとられたから嫌だからというのもアリでしょう。多くの人が取られるのが嫌だから法律でそう決めたのかもしれない。
人の物を取るとは「奪う」ことだ。「奪う」とは「他人の所有するものを無理に取り上げて自分のものにする」ことだ。誰の所有物でないものを勝手に自身の所有物にしても「奪う」ことにはならない。例えば、釣った魚は自分のものだ。しかし、私有地で釣った魚を勝手に家にもって帰ったら奪ったことになる。これは、その魚の所有者が他にいるからだ。
「奪う」とは、他人の「所有するもの」を無理に取り上げて自分の「所有物」にすることだ。この時「所有すること」、つまり「所有権」が認められないと「奪う」という行為は発生しない。所有権の無いものを勝手に取っても奪ったことにはなりえない。「所有権」を認めるのは国家でも何でも良い。最低でも二人いればよいだろう。「所有権」が認められたものを奪われたら、奪った人に「返せ」ということができる。だから、「所有権」が認められていれば、「奪う」ことは許されない行為となる。

「所有権」が認められていない場合は、「奪う」という行為は発生しない

そもそも、「所有権」が認められていない場合は、「奪う」という行為は発生しない。
例えば、所有権 - Wikipedia によるとWikipediaの記事の所有権は誰にも無い。だから、だれが編集しても良い。GNU Free Documentation License に基づき無断で複製して良いし、改変しても良い。通常のコンテンツならば勝手に複製したら奪ったことと同義だが、コンテンツに所有者がいないならば勝手に複製しても奪ったことにはならない。

また、共同体の所有物ならば、共同体に属する人ならば誰が使っても良い。共同体が認めれば、一時的に占有することはできるが、それは自分の所有物ではない。それを同じ共同体の人に勝手に使われても奪ったことにはならない。例えば、親が兄弟全員で使うようにと買ったおもちゃを占有しても問題ないが、それを兄や弟に勝手に使われても文句は言えない。

「所有権」が認められていない国家ならば、「奪う」ことは正当化されるだろう。強者に一時的な所有権が認められた状態ともいえる。しかし、それは一時的に過ぎず他の強者が現れればその「所有権」は移る。「所有権」が移っても、返せとは言えないので「所有権」が認められた状態とはいえないだろう。

どうして、人を殺してはいけないのか

「所有権」が認められない限り「奪う」ことは不当な行為とは言えない。ならば、人殺しは何を認めればやってはいけない、不当な行為といえるのか。
先ず、殺すのではなく傷つけることを考える。人を傷つけるのはやってはいけないことだろう。では、なぜやってはいけないのか。先の「所有権」で考えるならば、自身の所有権は自身が保有するので、勝手に傷をつけたら、所有物を勝手に壊すことになるのでやってはいけないこと、つまり傷害罪になるのだろう。自身の所有権は自身が保有するということが、人格を認め身の安全を保障するということになるだろうか。つまり、人格が認められているので本人の意思に反し勝手に傷をつけてはいけない。
この延長線上にあるのが「人を殺してはいけない」ということになるだろうか。人格を認めれば、勝手に傷をつけてはいけないのだから、ましてや勝手にその人格を消滅させることが許されるはずも無い。

脳死、中絶などは認められるか

微妙な問題ではあるがが、脳死が認められるのもその「人格」が存在しないので死んだというころなのだろう。中絶が認められるのも、その段階で「人格」が認められないから殺人にならいないのだろう。
また、生物的にヒトであっても人格を認めた人で無いなら殺しても殺人にはならないということか。あるいは、そのヒトの所有権を他の何かが有しているならば、所有権を有している何かのが生与殺奪権を有するということだろう。例えば、共同体の命なのだから人身御供も許されるし、口減らしだって許される。奴隷は人ではないから殺しても殺人にならない。要するに、同じ人でなければ殺しても殺人ではない。ただし、殺人ではなくても別の罪に問われる可能性はありますが。
人食に関しては各共同体により文化的背景が異なるので一概には言えない。
だから、その人を殺そうと、人であると認識して、つまりその人格を消滅させようとして殺した=殺意を持って殺した場合は重い罪に問われるのだろう。

自殺は認められるか

さてこの時、本人が「殺されること」を望んでいるのに殺しても問題ないのか。また、自殺は認められるのか。
本人が「殺されること」を望んでいても、人格を消失させること自体がダメだと考えることもできるし、死ぬ直前で本人がやっぱり生きたいと思うかもしれず、それは本人にしか分からないことなので殺したらダメだと考えることもできる。どちらにせよ、人格を他人が消滅させてはいけない。
自殺はの場合は、自身の所有権を自身が保有するので自殺しても問題ない、人格は他人との関りあいにより保持されるからと自殺は許されない、人格を消失させることはたとえ自身であっても認められないと考えることもできる。自殺が認められないことの場合、自殺した本人は死んでいるので処罰できない。しかし、一般に自殺未遂が処罰されないので、自殺は許されているのだろう。自殺に関しては、自殺者を減らす社会を作ることと、宗教は自殺を抑止出来るか、という話。 のように、彼岸を担当する宗教の分野なんだろうか。

傷害罪に関する補足

傷害罪に関しては、傷害罪 - Wikipedia によると、身体の完全性を害することであるとする説(完全性毀損説)と、生理機能や健康状態を害することであるとする説(生理機能障害説)があるそうです。僕の考え方は「完全性毀損説」に近いのか。

リンクする自由

*ここで、リンクとは主に<a〜 タグで括られたものや、URIの表示など目標とするページを参照することを指す。

一般に、憲法>法律>約款・契約>仕様>ローカルルール=マナー の順に従わなくてはならない。
さて、「リンク」は何によって認められた行為なのか。著作権をたてにすることはできるけど、それは引用や参照に基づくもので、引用が認められるので参照としてのリンクが認められるのであって、リンクそのものが認められたわけでもない気がする。
WWW上で「リンク」に関する特に明文化され一般化した取り決めが無いならば、それはWWWの仕様に従うべきだろう。WWWは自由にリンクできる機能を有する。つまり、WWWは自由に「リンク」できる権利を認めていると言える。また、WWW上では他人のリンクを拒否する機能を有しない。他人のページに張られたリンクを勝手に外すことはできない。つまり、WWWはリンクを拒否する権利を認めていない。これをもって、WWW上では他人の「リンク」を侵害してはいけないと言えるのではないか。
ある「リンク」からのアクセスを拒む機能も存在するが、相手が「リンク」することを拒んでいる訳ではなく、「リンク」そのものを侵害している訳ではない。よって、WWWにおいて「リンクを外せ!」とお願いすることはできるけど、命じる権利は被リンク側には無い。「リンク」そのものをを外せと命じるには、WWW上でそのように命じることのできる権利を認めるか、あるいはWWW以外で認められた権利を用いるしかないだろう。しかし、果たして「リンク」そのものを外せと命じることのできる権利などあるのだろうか。

ハイパーリンクに関する判例

ハイパーリンク - Wikipedia によると「大阪FLMASK事件」なるハイパーリンクに関する判例が存在する。

画像を可逆的にマスキングする事のできるソフトウェア「FLMASK」の作者が、自身のウェブサイトから同ソフトウェアでマスキングした猥褻画像を公開していたウェブサイトにハイパーリンクを行ったことで、猥褻図画公然陳列の幇助罪に問われた。同作者が控訴しなかったため、第一審での有罪判決が確定している。

ハイパーリンク - Wikipedia より

これは、「リンク」そのものがダメだと判決されたのではなく、「リンク」の仕方が問題だったのだろう。FLMASKは可逆的にマスキングするととができるソフトウェアである。FLMASKを公開している作者のウェブサイトから、FLMASKよりマスキングされた猥褻画像を公開していたウェブサイトにハイパーリンクすることは、モザイクの無い猥褻画像を公開したウェブサイトにハイパーリンクすることとほぼ同義である。モザイクを除去できる猥褻図画を陳列しているのは、ハイパーリンク先のサイト管理人であるが、そこにハイパーリンクしたこととモザイクを除去できるソフトウェアを同じウェブサイト内で公開していることが幇助にあたるのだろうか。だから、猥褻図画公然陳列の幇助罪に問われたのだろう。

リンクは自由だが責任を持って行うべし

上記の判例のように、「リンク」そのものは自由だけど、「リンク」にまつわる全てが許された訳ではない。前後の文脈や、リンクのされ方次第では「リンクを外せ」と命じることもできるだろう。つまり、「リンク」そのものを外せと命じることができるのは、「リンク」のニュアンスによるものか。例えば、「リンク」に伴い誹謗中傷していれば「リンク」を外せと命じることができる。ただ、誹謗中傷をしている場合はコンテンツそのものを消さなければならないだろうから、「リンク」を消せば済む問題でもない。あるいは、本人の了解の下で公開されている個人情報は、誰でも自由に利用してもよいのですか? のように個人情報保護法を用いるか。ただし、コンテンツ内に個人情報が無いとダメだし、「リンク」は参照にしか過ぎずそのコンテンツ内にある個人情報を「利用」したことになるのかグレーである。専門家ではないので分からないが、個人情報を元に言及している場合はその個人情報を「利用」しているので、黒だろう。ただ、個人情報に全く触れずに言及している場合、その個人情報を「利用」していると言えるのか否か。まさに、気になった事があったので調べていたら個人情報にぶち当たってしまったでござるの巻 ニンニン!である。

まぁ、要するにリンクする自由はある。自由は責任を伴うので、リンクする際は自己責任でというわけだ。

補足について

以下に、本エントリで生じた自身の疑問点を補足として追記した。

補足1:国家の略奪と侵略

国家間の戦争を考えるに、国家間で「所有権」を互いに認めていれば「略奪」は許されない行為だろう。しかし、ある国家間で互いに「所有権」を認めないならば「略奪」は正当化される。また、国家として認証されない、あるいはしないならば「侵略」なども正当化されるだろう。

しかし、近代では国際法により「略奪」や正当防衛でない戦闘行為である「侵略」などが、現代では「殺戮」が不当な行為であると定められているので、国際的に「略奪」や「侵略」は認められない。ただし、ここら辺はやはり勝てば官軍で、勝ってしまえば全て正当化されることがままある。「成功した侵略」が無いのは、成功した侵略は「侵略」ではないから。

補足2:人格が認められなければ殺しても良いのか?

飼い主は自身の所有物である飼い犬を殺しても良いのか。あるいは、所有者のいない野良犬や野良猫を勝手に殺して良いのか?
現在の日本では、動物愛護管理法が成立しているので愛護動物を勝手に殺すと罰せられます。ですから、飼い主が飼い犬を殺してはいけません。まぁ、動物を飼うならそれなりの責任を持たないといけません。もちろん野良犬も殺してはいけません。

第一章 総則

(目的)
第一条  この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

(基本原則)
第二条  動物が命あるものであることにかんがみ、何人も、動物をみだりに殺し、傷つけ、又は苦しめることのないようにするのみでなく、人と動物の共生に配慮しつつ、その習性を考慮して適正に取り扱うようにしなければならない。

要するに動物だって「命」があるんだから勝手に奪ってはダメよってことで。あくまで人間側の都合ですが。そもそも、全ての動物というわけでなく、愛護動物である「牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと、あひる、その他人が飼っている哺乳類、鳥類、爬虫類」にしか適用されず、愛護動物の「命」しか認めていない。他人が飼っている両生類や、魚類などの場合は「所有物」と考え「器物損壊」とかに問われる訳で、「命」はあるけど「命」を認めてるわけではない。

魚類は水産庁の管轄で、両生類は法律・行政上でもっとも影の薄い脊椎動物のようです。
全ての動物に対して人間の都合で殺してはいけないとしてしまうと、人間が通常の生活を送れないからでしょう。まぁここまでくると宗教の域ですが。

ちなみに、くじらにくじら権を認めるなんて面白い発想もあります。