勝手にしゃべる主人公達へ感情移入する理由

RPGなどにおいて、主人公が無言の方がその主人公に感情移入しやすい。しかし、これに対してFFなどのRPGは主人公達が勝手にしゃべりドラマを演じる。勝手にしゃべりはするが、主人公に感情移入することはできる。この微妙な距離感は何によって生まれるのか。

FF12と歴代FFの主人公達

ついでにFF12について述べておくと、FF12の主人公たるヴァンは空気と呼ばれるくらいにかわいそうな主人公である。空気なら空気らしく、プレイヤーの一部として無言を貫き通した方が良かったという意見は一理あるが、そうするとFFらしくないだろう。
FF12バルフレアこそが主人公だ!という意見もあるが、自分の過去を知っているのに隠しているのはFFの主人公になりえない。FF4のセシル、FF5のバッツ、FF7クラウドFF8のスコール、FF9のジタン、FF10ティーダにしても、自身の過去と未来に関して仲間のあるいは敵だけの問題だと思っていたことが、主人公自身にとっても問題だったという「え?!実は俺も!」的真実を持っている(参考:叶わない夢の歌 ファイナルファンタジーX)。しかし、それらは主人公自身が知らされていなかったり、記憶喪失だったりで、主人公自身がゲーム開始時から知っていることではない。FFが勝手に進むムービーゲームであるにもかかわらず、主人公に感情移入できる所以は主人公の秘密を主人公と共に知る点にある。
FF12バルフレアはある重大な事実をバルフレア自身が知っているにもかかわらず、自ら話すことは無い。これでは、この秘密がバルフレア自身から明かされた時点でバルフレアとプレイヤーとの乖離が起こり、感情移入できなくなるだろう。故にバルフレアは主人公にはなれない。ただ、ヴァンに関しては特筆すべき隠された真実は無いのも事実でありFFの主人公らしくない。それならば、アーシェを主人公にするか、ヴァンの内面をもっと緻密にプレイヤーに示すべきだったのだろう。
ちなみに、FF6に関しては誰もが主人公であり、誰も主人公ではないので上記とは一線を画する。それ故キャラクターが語らない過去をプレイヤーは知らない。むしりFF12もそのように作るべきだったのかもしれない。

FF10の違和感

主人公ティーダの名前は変更可能でありながらフルボイスなためか、作中でティーダの名前が呼ばれることは無い。主人公の名前を自分の好きなようにできるのは、作品に没頭するための手段ではあるのだが、どんなに親密になってもユウナや仲間たちに名前で呼ばれないのは違和感がある。ティーダの親父があんなキャラなのも名前を呼ばせないためではないかと思える。ユウナを始めとする仲間が主人公の名前を呼ばない台詞回しは上手いと思うのだけど、それに気が付くということはやはり違和感があるってことだ。
主人公の名前を変えられることで、主人公への言った感を高めようとしているが、ドラマは勝手に進み、誰も主人公の名前を呼ばない。これではドラマとしても、一体感としても中途半端である。

メタルギアソリッドの手法

メタルギアソリッドは非常に映画的手法を用いたゲームである。FFなどと違って常にリアルタイムでレンダリングし、ゲーム内で操作できるキャラクターのまま話は進むのだけど、それ故にゲームとムービーとの繋がりがより自然で、FFなどのムービーゲームよりも没入度は高い。
アクションの自由度の高さも没入度に貢献しているだろう。自分の起こしたアクションへの応答が多ければ、それだけゲーム内へのめり込める。それはゼルダの伝説も同じだろうか。
さらに、メタルギアはプレイヤー側の世界ありきで製作している点も忘れてはならない。プレイヤーの世界ありきで作っているのでいきなり「○ボタンを押せ!」と言われても違和感が無い。1ならば、パッケージの裏やサイコマンティス戦における2コン、ハインド戦におけるステレオとモノラル。2では、終盤の大佐の狂いっぷりと、雷電に明かされる真実。3ならば時計とジ・エンドなど。全体的にお痛が過ぎる感があるけども、笑いへと昇華されている。
ただ、やはり潜入任務という極限状態で、スネークと同時に物語の核となる部分を知るのが最大のポイントではないだろうか。プレイヤーはスネークと共に真実を知る。ただ、プレイヤーとスネークの真実に対する感情が異なれば乖離が起こるのだろうが、そこはやはり物語の進め方か。

ところで、メタルギアソリッド2の雷電が不評だった理由はキャラクターの不連続性にあるのではと思う。シリーズで唯一主人公がスネークではない。異質であることへの批判だろう。

真実を共に知る

勝手にしゃべりまくっても、プレイヤーが主人公を操作し、その結果としてプレイヤーと主人公が真実を共に知ることで主人公に感情移入できる。まぁ、これはゲームに限りませんが、ゲームなら自分でプレイした結果として知った真実という点が映画などとは異なる点でしょうか。