「萌え」の第二世代

昨年たくさん書いた「萌え」論を今一度。

オタキングが「萌え」にイライラしている件

オタキングこと岡田斗司夫さんクラスになると、オタク第一世代とか、生産するオタクと消費するオタクの違いとかいう考察とはまた違う気がする。岡田斗司夫さんクラスの人々は既に生産するオタクとは違う気がする。オタクを分析するオタクではあるし、自分語り大好きで自身の生態を顕にするのが好きなオタクではあるのだけど、オタクとは一線を画すみたいな感じ。やっぱり「お宅」なのかなと思う。そして今の世代は「ヲタク」。

「萌え」が無かった世代と生まれた世代と既に存在した世代

「萌え」は便利な言葉です

オタクの使う「萌え」、普通の人の使う「萌え」』にて語られていますが「萌え」って便利な言葉なんですよね。好きでもないし、かわいいでもない。エロい言葉ではないのだけど、性的な意味を含む。ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展日本館(テーマはおたく:人格=空間=都市)でコミッショナーの森川嘉一郎氏は、「未来の日本の美意識を表す言葉は『萌え』かもしれない」と語り、「わび、さび、萌え」と語ったことは分からないでもないです。

「萌え」は便利な言葉なんですが、それが無かったあるいはオタク間に十分に広まっていなかった時代、オタクたちはこの「萌え」という感情をどうやって表現したら良いかと悩んでいたわけです。だからこそ、このなんとも言えない感情を表現するために「萌え」が生まれ、如何にもふさわしい言葉だったからこそ広まったのでしょう。んで、「萌え」は如何にしてオタク間に広まったのかで語ったように、「萌え」が連用形でオノマトペにも派生できたのも、広まった一因でしょう。

言葉による感情の固定化

「萌え」が無かった、そして丁度生まれたあたりの世代は「萌え」と言う感情を表現する言葉を「萌え」によって得た。自身の言葉にできなかった感情を言葉を新たに作ることで固定化したわけだ。つまり、感情が先でその後に言葉が生まれた。これまで、その感情について色々と語られており、それを集約する言葉が「萌え」であった。皆が共鳴することで「萌え」が「萌え」として広まり、感情を共有することができた。はじめに感情ありき、感情は人と共にあり、感情は人であった。
「萌え」が既に存在した世代にしてみれば、言葉があり、それを説明する感情を想像する必要がある。「萌え」という言葉を固定化する作業をしていないので、意味からその感情を類推するしかない。しかし、「萌え」という言葉の意味は非常に不確かなものである。何故なら成立からして不確かだったから。そこに、「萌え」が存在しなかった世代と存在していた世代の違いではなかろうか。
存在しなかった世代にとって「萌え」は重い言葉であり、軽々しく口にすべきものではない。しかし、既にあった世代にしてみれば、ただの便利な言葉に過ぎず、便利だから口に出す。これが、『文語の「萌え」と口語の「萌え」の断絶』なのかもしれない。『オタクの使う「萌え」、普通の人の使う「萌え」』が違うのは、「萌え」を重く見るか軽く見るかで、オタクにしてみれば「萌え」は重く、むしろ「萌え」だけでは語りつくせないのだ。

「お宅」以前と以後

「萌え」は感情を言葉により固定化したもので、「萌え」が存在しなかった世代にとって「萌え」とは重い言葉であるが、既にあった世代にしてみるとただの言葉である。そしてこれは「オタク」にもいえるかと。「オタク」という言葉が無かった頃にオタクはいたが、それを表現する言葉が無かった。
先に、岡田斗司夫さんを「お宅」と評したのは、岡田斗司夫さんを始めとする世代がオタクという言葉が無かった世代からオタクとして存在していたから、言葉の由来と言われる「お宅」と表記してみた。彼らは「オタク」という言葉が生まれたことで始めて自身を「オタク」であると分類できたわけだ。その後の世代は語感のみで「オタク」。彼らは元々「オタク」という言葉があり、気が対らら「オタク」だった世代。ただ、どちらも世間では白い目で見られた世代。共においそれとは「オタク」などと口にはしない。しかし、最近ではオタクに対する目も和らいだ。和らいだと言っても未だにテレビでの扱いは下等生物を見て楽しむみたいな取り扱いだけど、それでもオタク文化という言葉も幾分違和感がなくなってきた。そんな世代が「ヲタク」。既に互いを「お宅」と読んだ形跡は無い。そして「ヲタク」は、「萌え」を始めから知っている世代と同じ。
言葉としては、「お宅」が一番重く、「ヲタク」が一番軽い。深さも「お宅」が最深だろう。

なんとなくまとめ

世代別にまとめるとこんな感じか?

  • 第一世代 生産するオタク 「お宅」 
  • 第二世代 収集するオタク 「オタク」 「萌え」第一世代
  • 第三世代 消費するオタク 「ヲタク」 「萌え」第二世代

二番目の○○するオタクはちょっと無理やり感があるが。
その言葉が存在しなかった世代とした世代では大きな隔たりがあると思う。「オタク」という言葉なら、無かった世代は自身を分類する言葉すらなかった。「萌え」ならば自身の感情を語る言葉を持たなかった。言葉が生まれることで共鳴し広まるが、広まった後はただの言葉である。
「はじめに言葉がありき。言葉は共鳴であった。言葉は言葉である」