繋がりで文章を書く

明日は明日の風が吹く - 全ブログ炎上予防運動 - CONCORDE」でyas-toroさんや、「かめのこだまし…? - ■weblog 2006/07/19」にての『斬(ざん)』souryuuseiさんに、僕の文章はリンクの仕方が上手いと褒めてもらったんですが、僕としてはこのような文章しか書けないのですよ。しかしながら、自身の文章術を解体することで何かが見えるかもしれないので、自分なりに考えてみた。

目標は京極堂

僕が目指しているのは、読んだことの無い人には申し訳ないですが、京極夏彦京極堂シリーズの中禅寺秋彦こと京極堂の語り口だったりします。京極堂の語り口はそれこそ鬼のように長く、彼の話がくど過ぎて読めないという人が多いです。劇中の登場人物ですら「京極堂の話は長い」と語っているくらいである。そんなんだから、新書なのに電話帳よりも厚く、文庫本のなのに全然携帯性に向いていない本になっている。
話が逸れてしまったが、京極堂の語り口は本当に長い。しかし彼の語り口には無駄が無い。全然別のことを話していると思わせて、本題への前振りだったりする。そして、その前振りなくしては本題の真意が100%伝わらない。つまり、全ての話が効果的に連続して繋がっているのだ。長い前振りをすることで、地面を慣らし、皆が本題を理解し易くしているのだ。

リンクを多用することで、初期条件の誤差を少なくする

僕はどうしてリンクを多用するのか。しかも文中リンクを。その一番の理由としては、自分と読み手のバックグラウンド=背景を極力近づけたいからです。つまり、初期条件を等しくおきたいから。初期条件が同じなら同じ結果が得られるので、同じ結論に導き易い。そのため、自身が書くに当って影響を受けた記事のリンクを多用することになります。ただ、僕と巡回先が同じような人ならば、大体のリンク先は読んでいるだろうから、リンク先を読まずとも内容が理解できる人もいるかもしれませんが。
ちなみに、全く同じ理由で文章が長くなります。先の京極堂のように前振りが長いのも、理解してもらいたいがためです。

参考文献的なリンクの仕方 流れと強調

文中リンクを多用するもう一つの理由は参考文献的位置づけです。これも、上記の背景を近づけると似たような意味合いなのですが、過去の議論としてこのような流れがあり、僕の文章はこのような位置づけにありますという意味合いでリンクをつける場合もあります。また、自分と同じ考えの記事にリンクし自身の主張を強調したり、もしくは反対意見も上げて並列させてみたりもします。
ただ、「リンクの多い記事」にもあるように文中リンクがあると読みづらいのも確かです。論文の場合は脚注を用いて最後に参考文献とまとめてあります。この場合、本文は格段に読みやすくなりますが、書く参考文献と本文との繋がりが弱くなります。ただ、論文の場合は適宜参考文献を自分で探す必要があるので、最後にまとまってる方が調べ易いし読み易いですが。
web上でも同様に、段落ごと、あるいは最後にまとめてリンクを紹介するのが主流な気がしますが。文章としては読み易いですが、コレだとそのリンク先と自身の記事の繋がりが薄くなります。折角webでリンクという機能があるのなら、各文章間の繋がりの方に重きを置きたいのです。

記事タイトルが分かり易い

各記事間の繋がりが自身の中で明確になっていないと、文中リンクを多用した文章は書けません。リンクばかりが多すぎると、自分の容量を超えてしまい書くにも書けない状況に。最近なら、「新聞、取材、報道、匿名、実名、2ちゃんねる」とかですね。結局リンク集に始終し未だに書けないままで、しかも若干旬が過ぎつつあるし。
ただ、僕の場合は多分にタイトルに助けられている部分がありますね。タイトルが分かり易いので、文中でそのままその題名が使える。タイトルが分かり易いので、忘れにくいし、万が一どこの記事だったか忘れても検索し易いですし。タイトルって重要ですよ。つまり、「ブログタイトルは真の釣り針になりうるか」かといと、僕にとっては釣られまくりです。これってブログの記事に限らず、本とかもそうですよね。

まとめ

というわけで、僕は前振りが長いです。そのため、紹介する記事も多目になります。それは、自分の考えの起点を読み手に示したかったり、自身の主張を強調するためだったり、自分の立ち位置を示したいからです。