エヴァの呪縛〜ハルヒ・エヴァ比較論によせて〜

何かとエヴァと比較されてる印象のあるハルヒ。個人的には、オタクの渇望がそうさせているのだと思いますが、今回は放送から10年も経ったのに、どうしてエヴァが語られるのかも考えてみた。

ポスト・エヴァといわれるハルヒ

この手のことに関しては、皆さん語ることが多いようで記事ありすぎ。そういう意味では流行ってはいるのでしょうが、しょせんはインターネットのオタク界隈で留まっている印象。今後再放送などで、それが一般化していくかもしれませんが。別にブームにならなくても、素晴らしい作品なのは確かなので、それで十分って気もしますが、できれば広く伝えたいです。理想はブームでなく、みんなに知ってもらうってのが一番ですが、それは無理か。

ハルヒエヴァの類似性

ハルヒエヴァが何故こうも比較されるのかは、先ず、ポストエヴァとしての涼宮ハルヒにあるように、ハルヒエヴァと対比できる点。次に、「涼宮ハルヒ」の成功は「名探偵」と「集団心理」?で分析されるように、話数をシャッフルすることで、また原作にも残る謎があり、それらの謎に何らかの回答を与えようとする衝動もエヴァと似ているといえる点でしょうか。ただし、多くで語られているように、ハルヒエヴァとではジャンルも違うし、放映された土壌も違えば、語られる場所も違う。列挙してまとめてみると

  • ジャンル
    • ジャンルの違いは明白だが
    • エヴァ:オタクへの問いかけ
    • ハルヒ:無駄な作りこみへの魅力
  • 放映された土壌
  • 議論の成される場
    • エヴァ:サブカル本が主(ネットなどでも語られたが、90年代後半と今では比較にならない&本が出ると言うことは一般人も知り易い)
    • ハルヒ:ネットが主(ライブ性はあるが、外に広がりにくい)

こんな感じか。しかしながら、「ハルヒ厨うぜぇ」と思うエヴァ・ファンもいれば、「エヴァ厨はキモオタ」というハルヒ・ファンもおり、この手の議論に嫌悪感を示す方も。また、原作とアニメファンとの間に一部軋轢もあるようで。

エヴァ・コンプレックスの克服?

ハルヒがポスト・エヴァと言われるのは、エヴァのような社会現象の再来をハルヒに求めたという向きもある。あるいは、エヴァ的社会現象を体験できなかった世代の渇望もあろうか。これは、未だにオタクはエヴァの呪縛から解き放たれていない(あるいは、解き放たれていない人がいる)ということであり、そういう意味では庵野氏がエヴァの最終話で訴えた「現実に帰れ」というメッセージが、未だにオタクを苦しめているということか。だからこそ、オタクがポスト・エヴァとしてハルヒに救いを求めるのも分からないでもない。ただし、実際に克服できたかどうかは別問題。

名作は終らない

なぜこうもエヴァの呪縛は根強いのか。偏に「エヴァが終っていない作品だから」と言うことに尽きるだろう。これは比喩的な意味での終ったではなく、本当の意味で終っていないということ。WEBアニメスタイル_COLUMN:第58回 エヴァ雑記「第弐拾伍話 終わる世界」にもあるように、エヴァはマルチエンディングでありTV版のEDに納得した人もいればそうでない人もおり、これは映画版も同様。話としては終っているのだが、後の解説・解読本の出版、そして今日に至るネット上でのエントリーの数々、そして何よりも終らせたはずの製作再度が少年エースで連載を続けたり、ゲームを出したり、その他グッズを未だに販売していると言う意味では、本当の意味では終ったとは言えないだろう。
エヴァに限らず、ガンダムも終っていない作品だろう。実際に初代ガンダムは打ち切りだったわけで、そのため最終話付近は混沌を極めた。打ち切られ混沌を極めたものの、当時のアニメファンの熱意から再放送され、各所の矛盾点をファンが補完しZへと繋がっていったことがガンダムサーガの幕開けとなったのだろう。そして未だに、ガンダムエース安彦良和が漫画書いてるし。

このように、後に語れる名作は終らない、終わりが無い。終らせたくないと言うのが本音だろうが、インターネットにより情報が大量に生産され、大量に消費される時代になると、それも難しいだろう。
ハルヒのように、ライブ性の高い考察、批評が多く生み出され、そして瞬時に消費される時代では、ガンダムエヴァのような社会現象を引き起こすブームは二度と起きないんじゃないかと思う。アニメに限らず、ドラクエ3は社会現象を引き起こしたが、ゲーム界でドラクエ3ほどの社会現象が起こることはまずないだろう。それほどまでに人々の嗜好は個々それぞれ雲散してしまったのではないか。そして、これはオタク界隈に限らず、音楽、本、全てのエンターテーメントに言えること。いずれ、インターネット自体が自らそうならないことを望む。