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リアリティが無いからこそ萌えるのではないか

リアリティがありすぎると、実体験を思い出し萌えられない。ファンタジーだからこそ萌えるのではないだろうか。

げんしけんのリアリティ

今ココに、2年前と現在の2つのげんしけん考があります。読み比べてみると面白い。どちらも究極超人あ〜るを取り上げいる点も興味深いが、私自身は究極超人あ〜るを読んでないのでなんとも。
さて、前者げんしけんをノンフィクションに見えるファンタジーと評し、後者はファンタジーでないことはないが、妙なリアリティがあると評している。この二つの考察は80年代オタクか90年代オタクかの違いによるところが大きいような気がします。そして、00年代オタクが評した場合、未だオタク的集団生活をしたことがないので、ユートピアにみえるのかもしれない。
私自身はげんしけんに妙なリアリティを感じてしまいます。斑目とか見ていると痛々しいし、笹原×荻上のオタク男とオタク女のカップル(しかも年下)とかもう見てられない。しかしまぁ、まだ物語として許容できる範囲なので楽しめますが。
最強の伊織派blog - げんしけん終了に寄せてにもあるように、作品に妙なリアリティをあると、読者はそのリアリティに打ちのめされるというか、引くというか凹むような、自分の認めたくない何かを抉られるというか、受け入れたくないというか、そんなネガティブな感情を感じてしまうことがある。こうなると、その物語を楽しめなくなってしまう。これは、そのリアリティが自身の体験を呼び覚ますために、物語をフィクションとして楽しめなくなるからだろう。つまり、感情移入しすぎて物語を楽しめないということか。
物語を楽しむ上で感情移入は重要な要素で、あまりにリアリティの無い作品には感情移入できずに面白くない。かと言って、先のように感情移入しすぎるのも問題で、適度に客観的視点を保ちながら感情移入してこそ、物語を物語として楽しめるのだろう。
ちなみに、僕はむしろヒラコーこと平野耕太に共感するタイプですが。

腐女子」考

私自身はBLや801には詳しくない。むしと、詳しいと怖いが。それ故に腐女子はどうしてBLや801を求めるのかという疑問が湧く。そのひとつの考察として、遺書: 無計画な攻めデパートにおいて、「腐女子は作品の登場人物に感情移入しない(だからこそBLなんてジャンルも成立する)」ということが示されておりました。引用元は、某所で著者に知識がないと叩かれているオタク女子研究 腐女子思想大系なんですが、これは一理あるのではないかと思えました。つまり、BLや801にリアリティが無いから成立することだろうか。これは、通常の男女の恋愛物の話の場合、どうしても自分自身のことに置き換えてしまいから、現実味の無いBLや801を求めるということだろうか。
腐女子のことは腐女子に聞いてみようと言うことで、腐女子という言葉(2)を読むと、

腐女子」とは「自分たちが、本来はあり得ない『捏造したフィクション』であるところの男性同性間の恋愛を好むということを、背徳感と共に自認している女子が用いる自称」
腐女子という言葉(2)

と述べられています。
要するに、ありえないフィクションであることを認めることでBLやら801が成り立っているわけです。また、

恋愛をテーマとした作品につきものの、二人の恋の成就を阻む障害が発生することはありますが、その障害とは同性であることではなく、想いのすれ違いや恋敵など、男女の恋愛もの作品に見られるものとさほど変わりません。
腐女子という言葉(2)

ということなので、むしろ男性同士というありえない状況のほうが妄想も膨らみやすく、男女という括りが無いのでどちらにも感情移入できるけれども、それでいて状況を俯瞰できるというのが楽しいのかもしれない。そういえばとなりの801ちゃんもそんな感じだ。
感情移入するしないに関わらず、腐女子はありえないフィクションでることを、つまりリアリティの無い話を妄想で楽しんでいる。むしろ、リアリティがないからこそ楽しいのだろう。

男オタクの萌え

腐女子はリアリティが無いからBLや801を楽しんでいると結論付けてみましたが、これは男オタクにも言える事なんじゃないですかね。
自分自身何に「萌え」るのか思い浮かべ、それがリアリティがあるのか考えてみると、凡そリアリティの無い属性やら、シチュエーションばっかしであることに気がつく。これは「燃え」もしかりである。例えば、私自身は妹がいるので「妹萌え」とか考えられないのだが、それでもがんばって萌える妹を夢想してみると、そんな妹現実にはありえねーよ!と思ってしまう。実際に妹がいるから「妹萌え」が成立しないのは、リアリティがあるからこそだ。逆に姉がいないので「姉萌え」はありだが、おそらく自身が萌えるような姉など実在しないだろう。つまり、現実味が無いからこそ萌えられる。
同じような考察がはてなダイアリー - やじうまGUIDEの日記でなされており、ここには

「少女に萌えるのは他人への感情移入ができない証拠」ではなく、「萌えるためにあえて感情移入のしにくい対象を選んでいる」

と述べられています。だからこそ、私は妹には萌えず、姉に萌えるのだろう。
このように、感情移入できない対象だから萌えられるのは、その対象が自分自身にとってリアリティの無い存在だから。もし、リアリティのある存在の場合、その対象をフィクションとして捉えられないので、萌えることなどできないのだ。

ネタをネタとして楽しめないと・・・

というわけで、長いのでまとめる

  • 物語を楽しむみは適度な感情移入と、客観的視点が必要
    1. あまりに感情移入しすぎると、物語をフィクションとして楽しめない
    2. 感情移入しすぎると、場合によっては自身の古傷をえぐる結果となる
    3. そうなると、その物語をみていられない
  • 腐女子とは、本来はあり得ない『捏造したフィクション』であるところの男性同性間の恋愛を好むということを、背徳感と共に自認している女子が用いる自称
    1. 捏造したフィクションだからこそ妄想できる
    2. 男女ではないからどちらにも感情移入できるし客観的視点も共存できる
  • 「萌え」もリアリティが無いからこそ成立する
    1. 対象に感情移入すると萌えられない
    2. ありそうで、実際には無い妄想だからこその「萌え」

だから、現実の人間を対象にも萌えとか言ったらキモイのさ。だって、妄想だもの。そもそも、オタは「萌え」と発声することほとんど無いけども。