魔王が世界を征服できない問題への一つの回答となる「まおゆう」

ドラクエ的世界観を元にした、魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 に関するゲーマー的視点からの書評。
もし iPhone を持っているならば、テキスト形式でダウンロードして青空文庫リーダで読むことをおすすめします。僕が使っているのは450円の i文庫 ですがFTPを利用してiPhoneに直接ファイルを送れますし、画像も見ることができるので漫画を読む際に便利です。
同作品の作者である、橙乃ままれさんによる ログ・ホライズン もテキスト形式でダウンロードできるので、是非青空文庫リーダで。青空文庫リーダで文章を読んでいると、電子書籍の利便性が良くわかります。

魔王が世界を征服できない問題とは

2007年の夏に、魔王がいつまで経っても世界征服できない理由 なるエントリがアップされた。それを受け、いくつかの視点から魔王はなぜ世界征服ができないのかが考察された。手前味噌ですが、魔王が世界を征服できない問題 にそのいくつかの視点をまとめています。
魔王とは魔界、あるいは魔族の王である。ドラクエ的な規範に立つと魔王はその強大な力を背景に、魔界や魔族を総ている。力で魔王として君臨した以上、さらなる力を示さなければならない。だから、力の出口として人間界を求めるのも無理からぬことだ。魔王の力で人間界に攻め込めばあっという間に征服することが出来るだろうが、すると魔界の統治が疎かになる。力で押さえつけている以上、魔王がいない間に様々な問題や不満が噴出するだろう。魔王がいない間に魔界を我が物にしようとする連中や、魔王に反旗を翻すことはないが気に入らないライバルを亡き者したりと。魔王一人では魔界と人間界を征服することはできない。だから、魔王は人間界に先兵を送り込む。ドラクエ3ならば、その先兵がゾーマの手先であるバラモスであろう。しかしながら、不倒城: 魔王のマネジネント能力について。 で語られるように力で物を云わし続けてきた魔王のマネジメント能力は高くない。だから、配下が他にもいるにも関わらず人間界をバラモスだけに預けている。そのバラモスもマネジメント能力が低いので、各部署にリーダーを設けて支配しようとする発想が出てこない。まぁリーダーがいても勇者に討たれるだけかもしれないが。仮に、少しだけバラモスが優秀で人間界を征服できたとしよう。この場合、いつまでもバラモスはゾーマの言う事を聞いているだろうか?バラモスが世界征服した場合、人間は虐殺されたり奴隷になるのかもしれない。魔族にしてみれば人間界は新世界の植民地だ。希望に満ちた土地だが、自分たちが生まれた世界ではなく、開拓といえば聞こえは良いが過酷な運命が待ち受けている。このような状況になった時先に見えるのは、イギリスから独立したアメリカのように、オタク風にいうならば連邦から独立をしかけたジオンのように、植民地たる人間界は魔王の一極支配から独立しようという機運が高まってくるであろう。バラモスが人間界を制服できても、最終的にはゾーマ陣営対バラモス陣営の二つに分かれるだけで、結局魔王対勇者の戦いに戻るだけだ。
人間の物語である以上、魔王は勇者に討たれなくてはならない。それでは勇者が魔王を討ったその後の世界に平和は訪れるのか?
魔王は一人だが、人間の王は大勢だ。人間側からすると魔王は驚異だが、魔王を共通の敵とすることで団結していた。魔王がいなくなれば当然、人間同士の争いが始まるだろう。当然、各国は勇者を自らの陣営に引きこもうとするだろう。だからこそ、ドラクエ3の勇者ロトは何処にも属さずに歴史の闇に消えたのだろう。また、ロトの末裔たるドラクエ1の勇者もラダトームには留まらず自らで国を興すことを決めた。ドラクエ2の主人公であるローレシアの王子のその後は公式に良くわかっていないが、興味深い話がある。吉崎観音によって描かれたドラゴンクエストモンスターズ+にはローレシアの王子のその後が描かれている。シドーを倒した王子だが、その強大すぎた力は人間から恐れられ迫害され失踪するというなんとも救いの無い物語である。

勇者と魔王が先に行くためには?

勇者が勝っても魔王が勝ってもこのドラクエ的な勇者と魔王の世界は、ジリ貧で先のない閉じた世界なのだ。ドラクエ的世界の先がジリ貧であることは、世相も相まってみんな心の奥底では気づいているのかもしれない。それ故に、魔王がいつまで経っても世界征服できない理由 のように勇者陣営と魔王陣営が実は結託しているから魔王は世界を征服しないのだ、と考えることもできる。また、GBのサガに登場した「かみ」はそんな閉じた世界に嫌気がさしていたのかもしれない。

もし、魔王のマネジメント能力が極端に高かったらという仮定のもとに描かれたのが今話題の 魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 (以下、まおゆう)である。冒頭を読めば即座にその答えが分かる。正解は魔王は世界を征服しないである。まおゆうはそれをどのように実現するかに重きをおいた物語だ。その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)ペトロニウスさんの言葉を借りるならば「先の物語だ」。愚直なまでに、目的を成し遂げるための方法を描いた物語なのだけど、セリフしか無いためか長さを感じない。
まおゆうは勇者対魔王をという勧善懲悪を描いた物語ではない。人間には人間の、魔族には魔族の思惑があってどちらの陣営も善とは言えないし悪とも言えない。もちろん、それ以外の思惑を持った陣営が登場する。勧善懲悪ではない物語を語るのは難しい。その理由は、魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」〜「先の物語」という意味(その1) でLDさんが語るように、先に行くにも状況としてできることは少なく先に行くには力が足りないことが殆どだから。例えば、コードギアスではルルーシュもスザクも完全なる魔王や勇者にはなれなかった。まおゆうを読んで十二国記の先が描かれないのも仕方の無いことだなと感じてしまう。あるいは、『ナウシカ』や『ガンダム』の「その先の物語」とは何か。海燕さんが語るように、物語として状況が複雑になりすぎて簡単には描けなくなってしまうから。つまり作者の力量を超えてしまうのだろう。ガンダムシードがぐだぐだなのは、敵味方の陣営が入り乱れているからだ。勧善懲悪の先を目指したものがガンダムだが、子供の頃に見たガンダムZでは、エウーゴと連邦の関係がさっぱり分からなかった。
「魔王×勇者」が「その先の物語」を描けた理由2ちゃんねるのスレッドに書き込まれるという形式のため物語を完結する必要がなかったことと、勇者と魔王の世界の行先はジリ貧だとみんなが薄々感づいていたこと、そしてもちろん作者の力量も。また、2ちゃねるの下地として会話しか無い戯曲的なテンプレートが存在していたことなどなど奇跡みたいな偶然が重なったからだろう。

なぜ桝田省治氏による書籍化なのか

さて、奇跡みたいな偶然はこれだけに留まらない。『魔王勇者』書籍化計画……だとっ!?・・・なん・・・だと・・・。というわけで、Togetter - まとめ「桝田省治氏による『魔王勇者』書籍化プロジェクト進行中」 なのである。

まおゆうと桝田省治氏が出会ったのは、勇者と魔王よろしく出会うべくしてであったのだなと感じる。桝田省治氏は早くから勇者対魔王という構図の先には救いが無いことに気がついていたのだろう。それはゲームシナリオやシステムにも現れている。例えば「俺の屍を越えてゆけ」に登場する黄川人。黄川人は魔王がいない世界に誕生した勇者である。討つべく魔王のいない世界で黄川人の力は強大すぎた。そのため神々に虐げられ、復讐の鬼となる。黄川人はラスボスつまり魔王であるが、それと同時に勇者でもあった。それを討つのが主人公一族である。主人公一族も原理的には黄川人と同じ勇者の資質を有するが、寿命が長くても2年しか無い「短命の呪い」と、人と子を生すことができない「種絶の呪い」がかけられている。つまり、主人公一族は黄川人を討つ力を持つが、「短命の呪い」のため黄川人になることはできない。このような保険が掛かっているからこそ、神々は主人公一族に力を貸すのだろうが、黄川人を討った後の保証は何も無いのである。
これと似た構図なのは、桝田省治氏の作品ではないがロマンシング・サガ2の七英雄と皇帝である。七英雄はその名の通りかつては英雄であった。英雄であったが、力を持ちすぎた末路として虐げられてしまう。皇帝は、七英雄と似た力「継承」により徐々に力をつけ最後には七英雄を討つわけだが、皇帝たちは人間なので七英雄になることはない。ロマサガ2の最後で皇帝は去り、人間の時代になることを示唆して終わるけれどもなんだかちょっと物悲しい。同スクウェア作品としての、ライブ・ア・ライブも魔王を語る作品として外せないのだけど、本稿とはそこまで関係がないかな。
桝田省治氏は勇者のその後の物語も描いている。それが勇者死す。である。携帯電話向けアプリなので残念ながら僕はプレイしていないのだけど、モバイルゲームレビュー「勇者死す。」 などを読む限り、魔王対人間の構図が無くなったその後が少しだけ描かれているようだ。

勇者とは、魔王とは、勇者対魔王とは、そしてその結末と、を問い続けていた桝田省治氏がまおゆうに出会い、そして書籍化に名乗りをあげたのは必然だったのだなと思う。まさしく、まおゆうにおける勇者と魔王の出会いが必然だったように。
イメージとして作者である橙乃ままれさんは魔王そのままである。作中のメイド長の魔王への評価は、そのまま橙乃ままれさんを表しているように感じる。

メイド長「まおー様は学究の徒というより、
 夢をおいかける現実主義者のような方ですよ」
魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」4 の40番

ならば、桝田省治氏が勇者かというとそうでもなくて、どちらかというと魔王に惚れ込んだ青年商人に近い。そして、物語も架橋な頃に魔王を叱咤している青年商人の姿がよく似合う。

書籍化に関する情報は、Togetter - タグ「魔王勇者」のTwitterまとめ を追うとよいでしょう。発祥は2ちゃんねるですが、それが飛び出して twitter にやってきったてのも面白い話ですね。

補章 まおゆうの生まれた背景

まおゆうが生まれた背景をメモ書き程度に

2ちゃんねるにおけるショートストーリー

2ちゃんねるにかかるお話系として代表的なものは「電車男」のような現在進行形式の作品で、その後も「痴漢男」など様々な体験が誕生しています。また、現在進行形式ではなく、自分の過去の体験をまとめて書く形式もあります。例えば、「ブラック会社に勤めてるんだが、もう俺は限界かもしれない」など。体験談意外にも、「やる夫で学ぶ」などのAAなどを使ってストーリーや教養を説明するものなどがあります。その中の一つでオタク的なものとして、新ジャンル○○やハルヒエヴァなどの二次創作があります。共に共通しているのは、まおゆうのようにというかまおゆうがその形式に乗っとているのですが、登場人物名とセリフだけで話が進行すること。二次創作の場合は既にキャラクターが固定化されているから、セリフだけでも話を読めるし、作る法としても作りやすい。新ジャンル○○とは、ギャルゲ的な女性の萌え要素を抜き出した物語。こんな女性かわいいよね、とキャラクターを説明する物語だから、むしろキャラクター名はなくても良い。
Togetter - まとめ「「魔王 勇者」でGoogle検索すると……」橙乃ままれさんが語るように、ドラクエ的な勇者と魔王を中心に据えた物語もいくつか存在した。勇者「魔王…降参する」 も勇者と魔王が結託する物語である、短いがSFじみていて面白い。王「本気で魔王倒す」勇者「えっ?」 は、もし人間が本気で魔王を倒すことにしたら、という物語だ。共に、まおゆうの卵的な物語だなと感じる。また、新ジャンル○○で行われてきたセリフだけでキャラクターを滲み出させるという手法はまおゆうでも行われている。これらの流れがなかったら、まおゆうは生まれなかったのでしょう。
新ジャンル○○や二次創作系に共通しているのは、スレッドタイトルがそのままタイトルというか通称になるところ。魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」スレタイのままで、名無しの物語である。今後書籍化されるに当たり、タイトルがどうなっていくのかも見所ですね。

ドラクエ的世界観

2ちゃんねる的にセリフだけで話を展開するためには、世界観がある程度知られていなくてはならない。ドラクエ的な話をするならば、ドラクエ的な世界観が暗黙の了解として存在しなければならない。まおゆうが可能だったのは、ドラクエ的な世界観が我々の中に当然のように存在したからだろう。
それを証明するように、昨今では当たり前のようにドラクエ的な世界観をを下地にした魔王対勇者を描くゲーム作品がある。例えば、「勇者のくせになまいきだ」。ドラクエに限らず和製RPG的なもののパロディで随所に小ネタが仕込まてている。内容は、魔王となり勇者を倒すためにダンジョンを作り上げるパズルゲームだ。同様に、3Dドットゲームヒーローズもやはりドラクエありきである。あるいは、勇者30。勇者30は30秒でレベルを上げて、アイテムを集めて、魔王を倒すゲームだ。魔王30もあり、こちらは30秒で人間たちを倒して行くゲーム。勇者や魔王が説明になしに当たり前に存在するのはドラクエがあるからだろう。
ドラクエ的な世界観がいかにして育てられたかを考える際に外せないのは、「知られざる伝説」、「モンスター物語」、「アイテム物語」そして「精霊ルビス伝説」といった書籍である。ドラクエは国民的なゲームであるが、ゲームだけで世界観をイメージするのは難しい。そこで、攻略本や先に上げた書籍により補強されることでドラクエ的世界観が確固たるイメージを確立したと言えるのではないだろうか。
また、ドラクエ4コマ劇場もドラクエ的世界観を広めるのに一役買っていたのではないか。ドラクエ3の場合、決まった名前がないため、「勇者」や「魔法使い」などとそれぞれの職業名でキャラクター同士が呼び合っていました。そういえば、登場人物を判官とか役職で呼ぶのはふつうのコトではあるんですけどね。

異種族との出会い

まおゆうは、異種族と人間が出逢ったらどうなるのかという物語でもある。
Togetter - まとめ「幽白からハンタまで連続しているテーマの話」 にて幽遊白書レベルEもHUNTERXHUNTERも、異種族と人間が出逢ったらどうなるのかが描かれている。ただし、まおゆうと異なるのはその人間を捕食できる種族を相手にしているところ。もしまおゆうの魔族に人間を捕食するような種族がいれば、全く違う物語になっていただろう。
人間を捕食する種族を描いた作品といえばミノタウロスの皿を思い出す。主人公は牛頭の宇宙人の住む星に不時着する。そのミノタウルス風の宇宙人は人間とよく似た種族を捕食する。このミノタウルス風の種族と人間に似た種族は共に意思疎通が可能。でも、補色関係にあるし、人間に似た種族は食べられることを光栄なことだと思っている。なんともグロテクスな話で、主人公はある少女を救おうと奮闘するのだが・・・。