ネタバレがまかり通るドラゴンクエストの映画
話題の「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」を見てきた。公開情報を見たときには全く見る気は起きなかった。5のストーリーを二時間に収めるのはどう考えても不可能だ。「天気の子」で流れた予告編で割とお腹いっぱいだったのだが、ネタバレ感想がTwitterのTLでガンガン流れてくるので、逆に見たくなり、重い腰を上げて見に行った。ネタバレを知ってから見ると、ラストもそれなりに受け入れられたが、それを知らずに見ていたら怒りがこみ上げてきたであろう。
id:fujipon さんや、id:Cinema2d さんが酷評していたので驚いた。最終的に、id:hananekotei さんのレビューが映画を見る後押しとなった。本作に関してはネタバレを読んでから見に行くかを決めた方がいいと思う。
ネタバレなし感想
散々ネタバレ感想が出回っているが、先ずはネタバレなしの感想を留めておく。
人物のキャラクターデザインは、ピクサーやディスニー映画の方向に寄せられているので、あまり好きになれない。山崎監督は観客に近い人物に「そばかす」を配すのが好きなのか、予告編で流れたルパン三世でも「そばかす」の入ったキャラクターが登場していた。正直、私は感情移入できないなと感じた。
鳥山明デザインのままだと、鳥山明映画になってしまうのでメインキャラクターのデザインを変更するのは理解できる。なんだけど、モンスターはほぼ鳥山明なのでチグハグに感じる。
その代わり「ゲマ」はデザインとしてもキャラクターとしても、いい悪役であった。流石、吉田鋼太郎だ。ヘンリーが坂口健太郎で、同じスクエニ映画である「光のお父さん」つながりなのであった。
キャラクターの表情が富んでいて、特にフローラが可愛くてビアンカ派の私も転びそうになった程だ。なのだが、キャラクターの重みが感じられなかった。身体的動きに重さがないのだ。主人公たちの住む小屋は雪山にありしばし雪の上を歩くのだが、雪の上を歩いているように見えない。兎に角、キャラクターが軽い。この軽さは戦闘シーンでも見られる。軽やかさの演出かもしれないが、戦闘に重みが感じられない。中身が入ってないようだ。
雑魚敵はほぼ一刀のもとに斬り殺される。殺された雑魚はMinecraftのブロックのように崩れ去る。つまり「起き上がり仲間になりたそうにこちらを見ている」余地がない。この点はドラクエ5の全否定である。
いい方向に解釈すると、雑魚戦はスピード感がある。ただそれは、ゲームプレイヤーの一体感を阻害するスピード感だ。無双シリーズの方がまだ雑魚敵の耐久力が高い。ボス戦になると、それなりに時間が割かれるのだが、主人たちの攻撃がボスに効いている気配がない。一刀のもとに下される雑魚とのギャップが甚だしい。
音楽の使い方が、とても残念に感じた。ドラクエ5以外の音楽が用いられている。戦闘音楽として4を流すのは台無しだ。全体として、シーンに当てるためにそれっぽい雰囲気の楽曲を他のナンバリングから持ってきているのだが、ゲーム中のイベントシーンが頭に浮かんでくる。つまり、やり込んだプレイヤーほど楽曲と映画のシーンとの乖離を感じる。エンディングになんで「この道わが旅」を流した?いい曲ですけども。
また、「序曲」を使いすぎてありがたみがない。もちろん、ここぞ!というシーンで使っており序盤こそ心が沸き立つのだが、終盤ではシーンが冷めて見えてしまった。折角の、東京都交響楽団が勿体ないのである。
ドラクエ5を映画にするには尺が足りない
というわけで、以下はストーリーのネタバレをガンガン書いていく。
ドラクエ5を2時間に収めるのは無謀である。本作は非常に駆け足でストーリーが展開するがそれでも収まってはいない。なんせ、開始十分で「ぬわー」である。それでも、ドラクエ5を象徴する結婚イベントには時間がかけられている。ただし、子ども時代がダイジェストでありレヌール城などはモノローグで語られるにすぎないためビアンカとの関係性が希薄すぎる。
また、多くの設定がスポイルされている。マリアは登場しないし、パパスはグランバニアの王ではなさそうだし、女の子も生まれない。もちろん、映画化する際にエピソードは取捨選択されるのが普通だし、ゲーム通りのストーリーである必要は無い。しかし、本作の趣向から考えるとSFC版準拠にすべきである。
ドラクエ5のもう一つの衝撃は主人公が勇者でなかったことで、映画でも再現しようと試みているが、やはりゲーム体験とは一線を画すと感じた。
ドラクエ5を映画に落とし込むなら、少なくとも二部、かのうならば三部作くらい必要だろうか。贅沢に分けるなら、子ども時代、結婚あたりまで、ラスボス撃破となるだろうか。
山崎監督はドラクエの映画化を頼まれた際に、最初は断ったのだという。その理由として、ゲームと映画の体験は違うという至極まっとうな認識を語っている。しかし、とある仕掛けを思いついたことで結局は映画化を引き受けた。それが物議を醸し出している、ドラクエ5のVRをプレイしている、という仕掛けなのだろう。このVRではプレイヤーは完全にゲーム世界に没入しており、日常の記憶はないという設定だ。このような仕組みを映画で再現するなら、主人公はゲーム中でVRであることに気がつく必要がある。それがコンピュータウィルスによるどんでん返しなのだろうが、尺が足りなさすぎて説明が不十分だ。
この現実パートは実写でもよかったのでは?とも思える。主演は佐藤健であるし、監督は山崎貴である。実写であってもなんの問題もない。むしろ、その方がゲームであるVRと現実との対比をしやすいだろう。
ゲマを親子二人でドラゴンボールのセル編のように倒した後、突如現れるのはゲームの世界を牛耳ったコンピュータウィルス。戸惑う主人公は、自分がVRを体験していることを思い出す。その彼に、ウィルスは制作者の「大人になれ」というメッセージを告げる。なんとも悪趣味だ。映画に怒ってる人は、このメッセージを映画制作側からのメッセージと受け取っているように見受けられる。ウィルス制作者による「大人になれ」や「虚無」などのメッセージに、ゲームを破戒する行為に関しては、ゲームに限らずエンタメをそういう風に思っていて破戒したい人いるよね、と思うので特に怒りなどはわかなかった。
ただし、ネタバレを知っても尚、ドラクエ5のストーリーを映画化したと思っていたら、実はVRでした、という仕掛けを説明するには尺が全然足りないと感じた。もっと時間をかけるべきだ。突如現れたウィルスが現実を突きつけたと思ったら、唐突にアンチウィルスであると主人公に告白するスラリン。結局、ウィルスはこのスラリンの助けによってあっという間に駆除されるのだが、発動する前に隔離しとけよ。無能か。
おまえの思い出はその程度なのか?
話題の映画をふたつ見てきた の増田でも語られるように、作中の「クエスト」や「じこあんじ」に「ロボット」など違和感ある用語、プサンのメタ発言、冒頭における子ども時代がSFCベースの画面によるスキップされるのも、VRへの説明付けである。
主人公はVRをプレイする前にオプションとして子ども時代のスキップを選択しており、また何度もビアンカを選んでしまう自分にプログラムとして「じこあんじ」をかけていたのだ。
設定としては悪くはないと思う。VRであることを認識しながらエンディングを迎える主人公は、観客と呼応する。ゲームを終えなければならない気持ちとも一致する。ただし、それは突然のウィルスの登場を受け入れられればの話だ。ネタバレを知っていた自分は、なるほどとも思えたし、山寺宏一扮するスラリンが「ワクチンプログラムだー」と叫びながらロトの剣っぽいオブジェクトを渡すシーンは不覚にも笑ってしまった。
突然ウィルスを投入させるよりも、何らかの不具合が生じて主人公がVRであることに気が付くも、プサンなどのNPCと協力して解決し通常のゲームルートへ戻るなどの方がよかったんじゃないかなぁと思うのだ。
そもそも、実は世界がVRやゲームであったという設定は散々使い古されており、まったく新鮮味がない。
仕組みとしては悪くないのだが、ドラクエシリーズと共に育ち、それをワクワクしながらクリアした過去があり、しかもSFC版ドラクエ5をクリアしたなら、この映画におけるVRドラクエ5におまえは満足できるのか?と主人公に問いたいのである。おまえのドラクエ5への思い入れはその程度なのかと小一時間問い詰めたい。
映画の冒頭は子ども時代のダイジェストだが、SFC版のオープニングが「ほぼ」そのまま流れる。それなのに、作中のVRでグランバニアのエピソードが語られることはない。また、「ほぼ」としたのは、なぜか船旅中にフローラと会ったことになっており、わざわざ子ども時代のフローラのドット絵まで用意してイベントを「捏造」している。そのシーンを流すならPS2版などのリメイク版を流すべきだろう。さらにフローラのドット絵のできが悪いのだ。そもそもFC版とSFC版のウィンドウが混在しているのもあり得ない。
SFC版をプレイしたならば、そのVRをプレイする主人公はSFC版準拠の世界やストーリー展開を望むと思うのだが、先にも述べたように本作はまったくそのようになっていない。
もちろん、VR用にアレンジされているとも説明できるし、本作のVR機はプログラムを自己生成できるとされているので、主人公の気持ちをくみ取って改変している可能性もある。あるのだが、それならばわざわざVR機が「じこあんじ」を設定するかね?という疑問が浮かぶ。結局「じこあんじ」はVR中のフローラによって阻止されビアンカと結婚することになる。「じこあんじ」をわざわざ設定する意味はVR的にも映画的にも意味がありましたかね?という。
まぁ主人公が「キラーマシン」を「ロボット」と称する程度のプレイヤーだっと解釈することもできる。「ロボット」もVRをプレイする際に主人公がオプションで追加したものだ。その結果、その「ロボット」は妖精の国への道中で出現するのだが、当然のようにそれは「キラーマシン」である。なのであるが、作中の登場人物は「ロボット」としか呼称しない。恐らくVRプレイ前の設定時に「ロボット 」としたからだろう。しかし、これは映画の観客に向けたとしても、VRをプレイするドラクエ5好きの主人公としても、「キラーマシン」と呼称して全然問題ないはずだ。この言葉選びを映画の製作サイドがどこまでこだわっているかは分からないが、「キラーマシン」を「ロボット」と呼ぶ主人公は、言うほどドラクエ5に思い入れがないのかなと感じた。
そのくせに主人公の名前は「リュカ」なのだ。久美沙織による小説版の主人公の名前なのだ。これは主人公が小説版が好きだからこそ出てくる設定だ。つまり、主人公はドラクエ5に思い入れがあるはずなのだ。そうでなくては、その他の演出とも整合性がない。するとやはり、この程度の再現度のVRを満足できるのかという問題が再燃するのであった。
スクエニも戦犯
雑な音楽の取扱いや軽すぎる戦闘シーン。魔物使いなのに、実質的に仲間にしたのはスライムとキラーパンサーとブオーンのみ。多くのスポイルされた設定がVRドラクエ5のデキの悪さを浮き立たせている。そして、それは映画のデキの悪さでもある。
リュカに限らず、本作はスクエニにも責任があるだろう。山埼監督は、堀井雄二とも綿密な打ち合わせをしたのだという。仕掛けとしてはメタゲームが好きな堀井雄二らしいともいえる。ゲーム内とはいえ6は、本作とよく似た構造ではある。しかし、その試みは成功したとは言えない。そもそも、オファーを断っているのに映画化を推し進めたのはスクエニ側である。
ドラクエ5はSFCの作品なのに、FC版とSFC版のテキストウィンドウが混在するとか、ブランドイメージを守るつもりがないとしか言いようがない。
本作を映画館で見るなら、ネタバレを見た方がいい。そうでないなら、オンデマンドなどで見ることをおすすめする。それほどまでの価値はない。